*** モネ劇場音楽監督就任発表に際して ***
大野和士は2002年9月からベルギー王立モネ劇場の音楽監督に就任する。 これを機に、大野和士がこのホームページに初登場、就任の経緯や今後の抱負などを語りました。 会話が多方面にわたり、しかも前後したので、一問一答の形に再構成したことをお断りします。 (構成:堀江信夫,文中敬称略)
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1,モネ劇場音楽監督就任の経緯 2,オペラ指揮者としての完成へのステップ 3,フランス語とフラマン語 4,北アイルランドの「千人の交響曲」 5,ファンからの質問に答える 6,今後の指揮活動の予定 インタビュー:ゆりあ&堀江信夫 2000.4.13 横浜にて |
1,モネ劇場音楽監督就任の経緯 |
モネ劇場の音楽監督就任決定おめでとうございます。 まずモネ劇場の音楽監督になぜ、大野さんが選ばれたのか、お聞かせください。 |
大野和士 |
ありがとうございます。 モネ劇場の関係者に、最初に私の名前が知られたのは、マクベス(ヴェルディ)でした。 これは、私のカールスルーエ就任2年目の最初のプロダクション(1997年10月)で、 これを見た音楽ジャーナリストが 「2つのヴェルディ」という、モネ劇場のヴェルディ上演との比較記事を書きました。 モネ劇場の関係者にとっては、いわば「格下」の劇場の、しかもドイツの劇場のヴェルディ上演の方が優れていると言われたことで、強烈に印象付けられたようでした。 音楽監督を選ぶような場合、試しに何かを振ってもらうことになるのですが、私の場合、はじめにパッパーノが振っていたニュルンベルクの名歌手のプロダクションのうち、後半日程の指揮を打診されましたが、都合がつきませんでした。 そこで、CDにもなっているガラコンサートを任されたのです。 若い歌手のためのコンサートで、CDには12曲しか入っていませんが、当夜は全部で26曲もやりました。 こういった場合、指揮者は楽譜を脇に積んで、とっかえひっかえスコアを開いて指揮するのが普通ですが、わずらわしいので全部暗譜で指揮しました。 |
それはオーケストラや劇場関係者だけではなくて、お客さんも驚いたでしょうね。 そう言えば、ザグレブ・フィルに急な代役で登場した時も、スクリャビンの交響曲第2番を暗譜で振って、驚いたオーケストラが「この人しかない」と思った、とか。 それに、将来のモネ劇場を担う、若い歌手たちから絶大な信頼を得たわけですね。 |
大野和士 | そして決め手となったのは、今年2月のベルファストでの千人の交響曲(マーラー)でした。 モネ劇場の関係者もたくさん来場して、この演奏を聴いて、「音楽面では彼に任せても大丈夫」ということになったようです。 |
「音楽面では」というのは、どういうことですか。 |
大野和士 |
音楽監督に求められるのは、単に指揮者としての能力だけではありません。 10年前、モネ劇場は「21世紀に向けてオペラハウスとして生き残るためにはどうしたら良いか」ということを模索し始めました。そして1990年代のテーマとして、例えばマクべス夫人(ショスタコーヴィチ)、ピーター・グライムス(ブリテン)、死者の家(ヤナーチェク)、ウールマン、ヒンデミット、さらに委嘱新作などを上演してきたのです。 |
おお、それは大野さんがこの10年間にやってきたことと全く同じではないですか! |
大野和士 |
そして偶然、フォクロー氏が近々、ウールマンやテレジンの音楽家たちについて論文を書かなければならず悩んでいる、ということを知りました。
そこで「ウールマンについてはどこの誰、テレジンについてはどこそこの文献に当たれば良い」といったことをアドバイスしました。 ヨーロッパの先進的な劇場でも知らないことを、まさか日本人の口から聞けるとは思っていなかったので、たいへん驚いたようでした。 それに加えて、私のレパートリーはたいへん広いので、モネ劇場に行っても全く初めてという作品は、当面ないのです。 ワーグナーの「パルジファル」以外の全作品指揮の経験を持って乗り込む、といったレパートリーの広い音楽監督は、劇場300年の歴史でも初めてではないでしょうか。 |
ということは、ひとりの芸術家の評価は、1回の演奏会の出来、不出来だけで判断するのは間違っている、ということにもなりますね。 |
大野和士 |
もちろん、会場に聴きに来られたお客さんには、喜んでいただかなければならなりませんが、少なくとも音楽評論家、ジャーナリスト、音楽学者といった専門家を標榜する人たちは、理解していないといけないと思います。
私がこの10年間、東京で上演してきたプログラムを、もう1度見直してほしい。 |
* 監修者註 | ||
作 品 名 | 作 曲 家 | 作 曲 年 度 |
サロメ | シュトラウス | 1905年 |
はるかなる響き | シュレーカー | 1911年 |
フィレンツェの悲劇 | ツェムリンスキー | 1916年 |
ヒンデミット3部作 | 1919−21年 | |
トゥーランドット | プッチーニ | 1924年未完 |
炎の天使 | プロコフィエフ | 1919−27年 |
イエヌーファ | ヤナーチェク | 1928年 |
マクベス夫人 | ショスタコーヴィチ | 1932年 |
無口な女 | シュトラウス | 1935年 |
ピーター・グライムス | ブリテン | 1945年 |
私が取り上げてきた作品というのは、1910年代から1930年代を系統的に網羅しています。 というのは、戦後のいわゆる「現代音楽」や、それにつながるシェーンベルク以来の音楽は頻繁に演奏されているし、それ以前の音楽も演奏されているのに、この時代の音楽は、ファシズムによる弾圧や戦争のために、演奏の機会を断ち切られてしまったからです。 世界的に見ても、この時代の音楽は再評価が進んでいます。シュレーカーもしかり。 そのことを理解しないで、ひとつの作品、1回の公演だけの単なる印象でモノを言うようでは、世界中から相手にされないと思います。 |
大野さんが日本初演したはるかなる響き(シュレーカー)の演奏も、そのような視点で評価しなければならないのですね。 世界中のシュレーカーの上演を見てきた、シュレーカー財団のヘイリー所長も高く評価していました。とりわけオーケストラに関しては最高の演奏だった、と。 |
大野和士 |
まずお客さんがあれだけ喜んでくれた、ということが重要でしょう。シュレーカーの美しい「響き」を楽しんでくれたことで、成功と言ってよいのではないでしょうか。 歌手も、テキストの表現力、正確なデクラメイション(朗読法)でレベルの高い上演でした。もちろん無口な女に出演したハルトムート・ヴェルカーのような、ドイツ語圏の一流の歌手が入れば、また違ったものが出せたかもわかりません。でも、シュレーカーのスコアの書き方では、どんな歌手だって声が客席まで届かないのです。 (2000.4.22 up) |