通奏低音

(8) 御神酒徳利

 「おじさまはおれにとっても父上と同じなのだぞ。第一、こんな時に摩利を一人にして おくわけにはいかぬ。摩利の帰国の準備が整うまで、おれも独逸を離れぬぞ。」
「その気持ちは嬉しいが、おまえだって日本で家族も仕事も待っているんだろう。 おれだって子どもじゃないんだし。」
「留守中のことはちゃんと手を打ってある。摩利は何も心配するな。欧州のような遠いところに 来れば予定通り帰れぬこともあるのは、留学の時に経験ずみだからな。」
「はい、はい、用意の良いことで。」

 日本と独逸が防共協定を結んだ11月、ハンブルクから新吾と摩利は日本に向かった。 新吾は予定より半月遅れ、摩利は1ヶ月繰り上げての帰国になった。
 船室を個室にしないで2人部屋にしたのは、新吾が強くそう主張したからだ。
「おい、いい年した男が2人部屋なんて、変に思われるぞ。」
「そんなこと思うやつには勝手に思わせておけばよい。それとも摩利は、おれと同じ部屋で 過ごすのがいやなのか? おそいたければおそっても構わぬぞ。」
いくつになっても無邪気な新吾に、ここまで居直られると摩利は二の句を次げない。

 大海原に出れば空も海も彼方で一つになっている。波に揺られながらデッキにもたれていると そのまま大空に吸い込まれてしまいそうな昼下がりだ。
「ボーフォール公には直接の連絡を取らないことにしているんだ。とうさまの遺言でもあるんでね。 でも、社交界の噂として耳に届くようにしてあるよ。公も阿吽の呼吸で噂を返してくれる。」
「そうか、早く、また、気兼ねなくみんなで一緒に仕事ができるようになるとよいな。」

 船中での2週間は、新吾も摩利も仕事関係の資料や本を読み、あるいは書類や報告書作りにと、 自分の作業に没頭して過ごすことが多かった。だが、いつも隣に自分の分身がいる心地よさに満たされ、 思音を失った摩利の大きな喪失感も癒されてゆく。

 ―― 金襴の交わりまでもう一息だな、新吾。
摩利の言葉に出さない独り言を、新吾は今もどこかで確実に受け止めている。

「おやすみ、まり」
「はいよ」
 夜毎の新吾が寝付き良いのも桜豪寮時代のままだ。穏やかな寝顔を眺めて、思わずその頬に掌を 当てる摩利。
 船窓からは、今夜も満天の星が見える。星から眺めればこの大型客船だって木の葉の大きさ にもなりはしない。でも、ここに新吾がいておれがいる。
 摩利と新吾は少年の時から異なる旋律を奏でていた。でも、その全く違う2つ旋律が完璧に 調和していたから、御神酒徳利と呼ばれていたのだ。奏でる自分たちも、まわりにもハーモニーが 心地よく響いていた。
 おれたちが親友である事を、力強く支えていたのは思音であり隼人だったという会話が、 波音を枕にする夜に何度となく繰り返された。

 新吾も摩利もそれぞれに思い出の中で自分を支えている人たちの姿を思い起こす。 おれたちも誰かの支えになっている。
「だから おれたちは つまり」
「おまえじゃなきゃ だめなんだ」
 やがては、おれたちも時の流れを支えて、ずっと変わらないものに還ってゆくのだろう。 その時になっても一緒だぞ。 ――新吾は通奏低音という言葉を知らなかったけれど。
青い春です おのおのがたよ…
通奏低音 完

(2000.1.13 up)

通奏低音 (7)埋 火 / あとがき

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