通奏低音
(7) 埋 火(うずみび)
窓の外の光景がいつまで経っても変わらない。枕木を打つ車輪の音も変わらない。
この短調なリズムがいつまで続くのだろう。
「今ごろ、新吾は授与式や講演を終えただろうか? 」
全ての予定を投げ出して摩利と一緒に伯林へ行くという新吾の説得に摩利が手を焼いているところに、
思音が意識を取り戻して新吾がスイスで予定通り行動することを希望していると、
ウルリーケからの第二報の電話が入った。
熟睡などできるわけがない。それでも車輪の音に聞き入っているうちに、
少しはうつらうつらしたようだ
夢?きっと夢なのだろう。しかし、摩利には、伯林に向かう終列車の誰もいないコンパートメントに
体をおいたまま、意識だけが一番幸せだった頃に飛んだように感じられた。
長めの髪を学帽に入れ込んだ自分がいて、隣には竹刀を担いだ新吾がいて、みんながいて…。
毎日毎日、学問も全猛者連の活動も乱痴気騒ぎのストームも真剣だった。
きっと、とうさまも同じように持堂院の日々を過ごしたのだろう。ああ、何かが続いているんだなぁ。
ずっと深いところに。無窮の時の流れにも変わらずに。この変わらないものが、
おれたちの刻一刻と移って行く人生でさえ揺るぎなく支えているんだろうか。
現世(うつしよ)という旋律を支えているこの通奏低音のようなものって何だろう。
「愛しているよ、新吾」
「うむ、おれもだ、摩利」
思音は小康状態を保ち意識もはっきりとしていると連絡を受けてはいたが、寝台から身を
起こすことはできないままに、摩利と話をした。
「新吾くんにも摩利くんにも悪いことをしましたね。私も隼人の夢を見ましたよ。
随分しばらくぶりに、持堂院の頃の夢です。」
摩利が何を置いてもスイスでの上首尾を伝えようとしたのだが、思音は用意しておいたらしい
言葉を告げた。
「摩利くん、私も引退するのに良い機会だと思いませんか? もう、随分前から摩利くんが事実上の
社主でしたけれどね。」
力ない微笑が頬に影を作っていた。もしかしたらと、摩利の胸に冷たいものが走った。
「お疲れが出ただけですよ。とうさまのことです。また、すぐにじっとしていられなくなるでしょうから
あまりめったなことをおっしゃらない方がいいですよ。」
摩利の声を聞くだけで満足そうな思音だった。
思音の寝台の横で一夜を明かした後、ウルリーケに促されて自室で仮眠した摩利が目を覚ますと
昼過ぎだった。その間に新吾から午後一番には伯林に着けると言う連絡が入っていた。
「そろそろ新吾がつきますよ」と告げに行くと、思音も摩利を待っていたようにしっかりとした声で
言った。
「摩利くん、そこのスーツケースをあけて下さい。二重底になっているのですがわかりますか?
中のものをここへ…」
「二重底?わが親ながらとことん油断のできない人ですね。」
愛情こもる軽口とともに、空のスーツケースを探っている摩利に、力はないものの楽しそうな
思音の声が聞こえた。
「はっは、別に見つかって困るものは入れていませんよ。ただ、いつも、かならず持ち歩くことに
しているので、忘れないように入れていたのですよ。」
二重底の中に摩利が見つけたのは、蓋の上に鷹塔家の家紋が金箔で押されたモロッコ革の
鍵付きの小箱だった。
「鍵はこの内ポケットに挟んであります。」
小箱を手にした摩利に、思音が愛用の携帯用葉巻入れを視線で示した。
蓋裏にはメーリンク家の紋章の箔押がある。どう見ても手の込んだ特注品だ。
中には柔らかく白檀が薫り、薄い和紙の包みが入っている。
「マレーネの髪と爪です。 私と一緒に入れて下さい。そして、私の髪と爪を日本で眠っている
かあさまに届けて下さい。これを摩利くんに頼んでおきたかったのですよ。私の髪はすっかり白く
なってしまいましたがマレーネにはわかるでしょう。」
ふーっと思音が息を継いだ。
「独逸人のかあさまは日本の土に眠り、日本人の私は独逸の土に眠ります。摩利くんや摩利くんの
家族が世界のどこにいても、2人で見守れますよ。」
40年も常に思音と共にあった小箱を手に摩利は立ち尽くした。
何人愛人があろうと、とうさまは再婚なんかするわけなかったんだと、両親の大恋愛を今更に
見せ付けられた摩利だった。
―― とうさまも埋火の熱さを知っているから、おれの結婚を強く望みながら最終的にはおれの意志に
任せてくれたんだ。
摩利が告げたとおり間もなく新吾が駆けつけた。摩利に遅れる事ほぼ一日、授与式と記念講演を
終わらせて、取るものも取り敢えずにジュネーブを後にしたのだろう。
「おじさま…」
「ああ、新吾くん。よく顔を見せて下さい。」
部屋に入るなり、新吾は冷静な医師の目で思音の容体を見てとって言葉を失った。
手にもった博士号授与の賞状と記念メダルがそんな新吾の代弁をする。
「ありがとう、新吾くん。本当に良くやってくれましたね。これで私も隼人やしずさんに
大威張りで会えますよ。 摩利くんのお陰で、マレーネかあさまにも胸を張って会えます。
本当に私は出来の良い息子たちに恵まれて幸せですよ。」
「そんなっ! 縁起でもないことを!おじさまが治るまで、おれ、独逸を離れませんからね」
思わず語気を強める新吾に、思音は自分の親友の面影を見て微笑む。
大儀そうにようやく片手を摩利の方に伸ばして思音が続けた。
「いいですか、摩利くん。新吾くんには、この先もどれほど迷惑をかけてもかまいませんよ。
新吾くんの御両親には私から良く謝っておきますから。摩利くん、新吾くんにはなにも遠慮を
してはいけませんよ。
そういう訳です、新吾くん。摩利は新吾くんがいてくれるから、今日までやってこられました。
これからも、よろしくお願いします。
そして、新吾くんも摩利には一切遠慮は要りません。摩利がなんと言おうと私が許します。
いや、摩利もそのほうがうれしいでしょう。
隼人と私の姿を見て君たちがお神酒徳利になったように、やがては…」
一息に話し込んで安心したのか、思音は言葉を詰まらせ摩利の手を握ったまま寝息を立てはじめた。
その深夜、新吾が脈を取る中、思音は安らかに息を引き取った。
(2000.1.13 up)
通奏低音 (6)再 開 /
通奏低音 (8)御神酒徳利
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