7, フラジオレット |
「お待たせして、ごめんなさいね。お茶がすっかり冷めてしまったわ」 |
「口には出さないけれど、パリの社交界では知らない人のいない話よ。
だから、遅かれ早かれ摩利もそのうち誰かに聞くことになるものね。
だったら、直接、私が話した方がわかりやすいわ」 |
17歳の終わり頃、アグネスに縁談が持ち上がった。
この話は、両家ばかりでなく双方の親戚一同の事情がからんで、当人たちの手の届かないところで進められた。
両養子の両親を見て育っているアグネスだから、親族の都合で自分の結婚が決まっても、取り立てて不自然な成り行きだとは思わなかった。
両親ばかりでなく身近な人たちを見回しても、当事者の意向が先に立って決まった結婚のほうが、却って少ない。 |
「無理することはないぞ。嫌なら嫌と言えばよい」 |
「だから、この館はもともとはS男爵家のものではなくて、私たちのひいおばあさまの実家、P侯爵家の離れだったのよ。
―― 何代か前の当主の別荘だったと聞いているわ。
それをボーフォール家が管理していたのですって。 |
「それで、あなたは幸せなの?」 |
アグネスが立ち上がって弾きはじめた。
ブラームスのヴァイオリンソナタ1番、摩利がペルチャッハで散々練習して、もう暗譜している曲だ。
最初のテーマが終わったところで、驚愕の表情を浮かべる摩利にアグネスが微笑んだ。 |
音が音色になり音符が曲になり、そこに音楽が生まれた。
摩利は、アグネスの採譜できるほど正確な演奏に驚嘆しながら、脳裏の楽譜を追う。 |
「あらあら、また、お茶がさめてしまったわ。もう、いいわね?」 (2001.4.13 up)
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