7, フラジオレット


 「お待たせして、ごめんなさいね。お茶がすっかり冷めてしまったわ」
アグネスはメイドを呼んでお茶を淹れなおすように言いつけ、入れ違いで入ってきた執事にS男爵とポワティエの人たちがパリで過ごす準備と、自分がペルチャッハに戻る仕度を指示した。
 「これ、電話で話しておいたアグネスの…」
摩利が大人の世界のやりとりに気(け)おされて口篭もりながら、楽譜や予備の弦なども入れられる大ぶりのヴァイオリンケースを差し出す。
「わざわざありがとう。列車の中でうっかり取り違えてしまって。 ケースがいくら似ていても自分の楽器を見まちがえるなんて、いけないわね」
受け取ったケースを確かめるようにひとなですると、続き部屋になっている寝室から同じようなケースを持ってきた。
「はい、こちらが摩利のよ。中を確かめて下さる?」
すっかりいつものおっとりした口調に戻っている。 けれども摩利は、先刻の電話でのやりとりが耳の底に残ってどうも落ち着かない。 ソファの端で、半ズボンを吊るサスペンダーをもぞもぞいじっている摩利の様子に、アグネスが困ったような笑顔で言う。
「そうよね、摩利は知らないのよね。思音やボーフォール公が摩利に話すとは思えないし」
アグネスが脇に置いたヴァイオリンケースの鍵穴に小さな鍵を差し込むと、ピンとかすかな音がした。


 「口には出さないけれど、パリの社交界では知らない人のいない話よ。 だから、遅かれ早かれ摩利もそのうち誰かに聞くことになるものね。 だったら、直接、私が話した方がわかりやすいわ」
 ソファの上でゆっくり蓋を開くと、とび色のヴァイオリンがベルベットのような光沢を放った。 視線を楽器に落としたまま、問わず語りが始まった。
 摩利は、自分の曾祖母のひとりがフランスのP侯爵家出身であることは以前から聞いていた。 ただ、アグネスの婚家S男爵家とP侯爵家が親戚にあたることは、アグネスの話で始めて知った。 このフランス人の曾祖母は、アグネスの母の祖母でもあり、血縁上はアグネスの母とマレーネは従姉妹になる。

 17歳の終わり頃、アグネスに縁談が持ち上がった。 この話は、両家ばかりでなく双方の親戚一同の事情がからんで、当人たちの手の届かないところで進められた。 両養子の両親を見て育っているアグネスだから、親族の都合で自分の結婚が決まっても、取り立てて不自然な成り行きだとは思わなかった。 両親ばかりでなく身近な人たちを見回しても、当事者の意向が先に立って決まった結婚のほうが、却って少ない。
 婚約披露も華やかに行われ、結婚式も半年後に迫った頃、病床を離れられないS男爵の代理として、突然、P侯爵がメーリンク子爵を訪ねてきた。 新郎になる男爵のひとり息子は長年にわたって乳母の娘と相愛で、しかも、5ヵ月後には子供も生まれるというのだ。
 メーリンク子爵は激怒したが、両家の縁組は成立させなければならない。 しかも、当主であるS男爵が余命幾ばくも無い病の床に伏せており、ことは急を要した。

 「無理することはないぞ。嫌なら嫌と言えばよい」
物静かな言い方だったが、およそ養親に異を唱えたことのない父が、この時ばかりは決然とした表情でアグネスに告げた。 結婚以前に身辺に女性がいても、それ自体はさほど珍しいことではない。 しかし、婚約が正式に整ってからの妊娠騒動となれば話は違う。 親としては無かったことにしたい縁談だ。
 だが、その夜、アグネスの部屋に人目を忍ぶように母が現われた。
「おとうさまは、ああはおっしゃるけれど、でも、できるものならこのお話をうけてもらえないかしら?  あなたの気持ちもわかるけれど…」
母がどんな言葉を飲み込んだのか、アグネスにはよくわかった。 それ以上に、今、自分にこの言葉を言わなければならない母が痛々しい。
 私がおかあさまなら、きっと同じことを言うわ。 世間に少なからず転がっている話に、たまたま私もめぐり合わせたらしい。
 ポワティエの城とは別にパリに館を構えることを条件に、アグネス自身も結婚を承諾して、乳母の娘が夫に良く似た黒髪の男の子を産んだ翌月、彼女はパリに移り住んだ。

 「だから、この館はもともとはS男爵家のものではなくて、私たちのひいおばあさまの実家、P侯爵家の離れだったのよ。 ―― 何代か前の当主の別荘だったと聞いているわ。 それをボーフォール家が管理していたのですって。
 私はポワティエの城で妻妾同居でも構わなかったのだけれど、おじいさまがお許しにならなくて、その女を追い出せなんて言うものだから。 子供が“不慮の事故”にでもあったら、それこそ寝覚めが悪いでしょう?」
 ケースから楽器を出しながら、どこか他人事のように話を結んだ。

 「それで、あなたは幸せなの?」
もどかしげに眉を吊り上げた摩利が、少年の声でまっすぐに切り込んだ。
「幸せよ」
アグネスは、摩利の素直な憤りを静かに正面から受け取り、手にしたヴァイオリンのE線(一番細い弦)を薬指ではじいた。 ゆるめてある弦がか細く鳴った。
「ねえ、摩利。マレーネ、あなたのおかあさまは幸せだったと思う?」
あまりの穏やかさに、摩利の方がたじろいで一息おいた。
「え、もちろん…」
艶やかなとび色の楽器を膝の上に立てて、4本の弦をなでると和音がはらんと響く。
「そうね、きっと幸せだったと私も思うわ」
ペグ(糸巻き)を締めて音程を整える。
「でも、メーリンクのおじいさまもおばあさまも、マレーネが幸せだったとはお認めにならないわ。 絶対に」
弓を軽く弦に当てて音を確かめる。
「遠い異国で、あの若さで親兄弟にも会えずに息を引き取るなんて」

 アグネスが立ち上がって弾きはじめた。 ブラームスのヴァイオリンソナタ1番、摩利がペルチャッハで散々練習して、もう暗譜している曲だ。 最初のテーマが終わったところで、驚愕の表情を浮かべる摩利にアグネスが微笑んだ。
「ね? 弦をきっちりと抑えて、しっかり弓を当てて、基本どおりの音を正確に出して、楽譜どおりに音を並べても、“曲”にはならないでしょう?  ましてや、ブラームスにはならないわ」
 再びあごに楽器を当てると、伸びやかにト長調のメロディーを奏ではじめた。 いつもの彼女の澄んだ音色だった。
―― フラジオレット。 不世出の天才ヴァイオリニスト、パガニーニがあみだした奏法。
アグネスの左手の運指(うんし)を見て、摩利がつぶやいた。
 弦を抑えきらず少し浮かし加減にして、弓もそっとなでるように当ててゆく。 ふわっと、時には肩透かしのような力が抜けたような音が出る。 音色の変化で表現の幅が広がる奏法だ。 また、弦を抑える力加減によって同じ指のポジションでも音程が変化し、運指ヴァリエーションの技術(テクニック)にもなる。

 音が音色になり音符が曲になり、そこに音楽が生まれた。 摩利は、アグネスの採譜できるほど正確な演奏に驚嘆しながら、脳裏の楽譜を追う。
 音楽が時空を越えた世界の扉を開き、夏のペルチャッハ湖からよせる風の匂いが広がった。
 確かに、これはあの山間(やまあい)の湖畔で、夏の間に作られた曲だ。 これほどの世界が今ここにあるのに、どうして脳裏の楽譜などに関わっていなければならない?
 摩利は何も考えず、ペルチャッハの夏の空気に浸った。
 ピアノでゆったりと始まった1楽章が、フォルテで高らかに終わる。 最後の3連符とスタッカートを小気味よく決め、フェルマータを存分に聞かせるとアグネスは弓をおろした。

 「あらあら、また、お茶がさめてしまったわ。もう、いいわね?」
演奏に集中しきった後のさっぱりした笑顔で、アグネスが冷めた紅茶に口をつけた。 その笑顔が摩利には無性に切なかった。 そして、どうしてそんなことをしたのか今でもわからないのだが、ふと気づくと彼女の首に腕を巻きつけて接吻していた。
「これから、また、ひとりでペルチャッハに戻るのでしょう? 僕も一緒に行っていい?」
 アグネスがうなずいた。

(2001.4.13 up)



6、思惑交錯 / 8、パリの紅葉

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