5, 窓ガラスの光景 |
朝から細かい雨が降りしきっている。
ヴェルター湖の水面(みなも)が小刻みに波立ち、わずか2キロ足らずの対岸がぼやけている。
午後になるほどに山間(やまあい)の避暑地の気温は下がり続け、夜には8月だというのに居間の暖炉に火が入った。
2週間前に滞在していたイタリアの目も開けられない日差しと、じっとしていても汗ばんでくる暑さが嘘のようだ。 |
「これだけ空気が湿っていると、弦が湿気を吸って弾いているうちに音程が狂ってしまって。
もう、今日の練習はあきらめましたわ。
早く雨が上がると良いのですけれど」 |
「日本でも、昔の上流貴族は一夫多妻だったし、大人扱いされるのも早かったんですよ」 |
ぼくは今の生活に不満はこれっぽちもないし、ましてや自分を不幸だと思ったことなど全くないさ。
(そりゃ、ほんのチビの頃は“あいのこ”といじめられて、べそをかきもしたけれど)
とうさまだって、ぼくたちの生活は今のままで充分幸せだと思っている。
……、アグネスは今この瞬間にでも、家族に会いたいのかな? |
夜半には冷たい雨も上がった。
湖水の上に立ち込めた朝もやが晴れるのを見計らって、アグネスが花バサミを手に温室の薔薇の様子を確かめる。 |
厩の方から人の声が聴こえてくる。
そう言えば、摩利が今日こそは遠乗りにでられると、朝食の前から地図を広げてそわそわしていた。
アグネスが様子を見に寄ると、思音が栗毛の馬に鞍を置いていた。 |
ペルチャッハ近辺 |
オシアッハ湖周辺は針葉樹が生い茂る険しい斜面で、ペルチャッハ湖ほど開けていないので観光客はほとんどない。
日差しがまだらに差し込む林の中を、思音の栗毛が先に立ち湖沿いに進んでゆく。
樹脂の香(か)か、甘いような薫香がかすかに漂う。
摩利は、白馬の上でこの不思議な香気を胸一杯に吸い込んでみた。横にはオシアッハ湖の水が光る。 |
山陰に日が落ちて薄暗くなった別荘の裏庭で、思音が白馬の上から摩利を助け下ろしているところに、待ちかねたようにアグネスが駆けつけた。
ボーフォール公からの長文電報を思音に差し出す。スイスの別荘から出したものだった。
電報を読み進むに連れて思音の表情が険しくなった。 (2001.3.30 up)
|