5, 窓ガラスの光景


 朝から細かい雨が降りしきっている。 ヴェルター湖の水面(みなも)が小刻みに波立ち、わずか2キロ足らずの対岸がぼやけている。 午後になるほどに山間(やまあい)の避暑地の気温は下がり続け、夜には8月だというのに居間の暖炉に火が入った。 2週間前に滞在していたイタリアの目も開けられない日差しと、じっとしていても汗ばんでくる暑さが嘘のようだ。

 「これだけ空気が湿っていると、弦が湿気を吸って弾いているうちに音程が狂ってしまって。 もう、今日の練習はあきらめましたわ。 早く雨が上がると良いのですけれど」
 アグネスも夕食後のレッスンを早々に切り上げて、思音や摩利の話に加わり居間でくつろいでいた。
「日本には晴耕雨読と言う言葉がありましてね。 気ままな生活のことをいうのですが、雨の日には本を読む楽しみがありますよ」
摩利が外に出られず退屈しているのではないかと気遣うアグネスに、思音が答えた。
 「あら、摩利、その本は?」
「日本語ですよ、これが。右から縦に読むんですよ」
「まあ、右から縦に?」
珍しそうに摩利の手元を覗き込む。
「どんなことが書いてあるの?」
「古い有名な物語です」
「言い伝えを集めたもの?」
「いいえ、900年前に宮廷の女官が書いたお話です」
「そんな昔に女の人が? どんなお話かしら?」
「とても長い話で、ぼくも、まだ、読み始めたばかりなんです」
「読んだところまででいから、話してくださらない? どんな主人公なの?」
「主人公は時の帝の2人目の皇子です。 3歳の時に母上が病で亡くなるけど、でも、そのあと父帝にかわいがられて、美しくて賢い男の子に育つんです」
「3歳でおかあさまに死に別れて、おとうさまに大切にされて? まるで、摩利をモデルにしたような物語ね」
 ―― 他にも多くの妃があったが、帝の亡妃への追慕と嘆きが止まず、その妃に似た姫宮が新しく妃として迎えられた。
 帝はその妃の元を訪れる時、忘れ形見の皇子をともない我が子と思って慈しむよう願う。 その願いのとおり妃と皇子は実の母子のように睦み合ったが、皇子が元服すると妃の御簾の中に入ることは許さなくなった。 これからは、美しい義母の姿を見ることも近くで語り合うことも許されない。 越えられない、いや、越えてはいけない溝の深さが、皇子に自分の義母への想いは道ならぬ恋だと思い知らせる。

 「日本でも、昔の上流貴族は一夫多妻だったし、大人扱いされるのも早かったんですよ」
摩利の要約を聞いていた思音がドイツ語で補足した。
「この物語の皇子も12歳で元服して、最初の奥方を迎えますからね。 お相手は父帝の配慮で大臣のお姫様、16歳の姉さん女房でしたが、それもごく普通のことだった時代です」
 部屋着でソファに深くかけた思音が、手にしたブランデーグラスを眺めながら持堂院での学生生活でも思い出したのか、なつかしそうに語る。 アグネスもうなずきながら、他では聞けない異国の物語に耳を傾ける。
 湖に面した窓ガラスに、暖炉の炎を背にソファでくつろぐ3人が映っている。 事情を知らずに見れば、親子3人の団欒の光景そのものだ。
 窓に映る自分たちの姿に気づいた摩利だが、ふっと、窓ごしに他所の家庭を垣間見る錯覚を覚えた。 それは、同じ年頃の大概の子供にとってはありふれた日常でありながら、摩利には無縁の情景だった。

 ぼくは今の生活に不満はこれっぽちもないし、ましてや自分を不幸だと思ったことなど全くないさ。 (そりゃ、ほんのチビの頃は“あいのこ”といじめられて、べそをかきもしたけれど)  とうさまだって、ぼくたちの生活は今のままで充分幸せだと思っている。  ……、アグネスは今この瞬間にでも、家族に会いたいのかな?
 「S男爵はペルチャッハには来ないの?」
 ふと発した摩利の問いに、思音が表情を曇らせ何か言いかけた。 アグネスが目配せで制して、慣れた様子で微笑む。
「ええ、この時期はもうブドウの取入れが始まっているのよ。 ワインの仕込みの時期に、男爵はポワティエを離れるわけにいかなくて」



 夜半には冷たい雨も上がった。 湖水の上に立ち込めた朝もやが晴れるのを見計らって、アグネスが花バサミを手に温室の薔薇の様子を確かめる。
 おばあさまがお好きな白薔薇が咲きそろったのに、今年はお見せできなくて残念だわ。 ウルリーケご愛用の縁だけ赤い薔薇も、良い出来ね。 …、インドにも薔薇はあるのかしら? 象だの虎だの動物の話は散々聞かされたけれど。 そんな猛獣がいる国でも、あの子は行ってしまうのかしら? もし、私だったらどうするかしら? …そうね……。

 厩の方から人の声が聴こえてくる。 そう言えば、摩利が今日こそは遠乗りにでられると、朝食の前から地図を広げてそわそわしていた。 アグネスが様子を見に寄ると、思音が栗毛の馬に鞍を置いていた。
「やっと、思音の乗馬ズボンス姿も見慣れましたわ。 最初はなんだか見ている私が落ち着かなかったのですけれど」
アグネスの屈託のない笑顔に、仕事虫の思音が照れる。
「私だってスーツと夜会服(タキシード)ばかり着ているわけではありませんよ」
「うん、とうさまは部屋着も着るよね」
無邪気な摩利の言葉が追い討ちになって、アグネスが声を立てて笑った。 思音もつられて笑う。
「これは参りましたね。はっはっは」
 摩利の白馬は既に準備万端、パリであつらえた思音とそろいの乗馬服で手綱をとって佇(たた)ずむおませな美少年が絵になっている。
「ここのところ、おふたりにかわいがってもらって、よく運動させてもらって馬たちもご機嫌だわ。よかったわねえ?」
アグネスが2頭の首筋をぱたぱたと叩きながら、濡れたような馬の大きな瞳を覗き込む。
「今日はオシアッハ湖方面に足を伸ばすつもりです。私が摩利くんについて行ければですが」
思音が摩利を馬上に押し上げながら、いたずらっぽく笑った。 馬にはご無沙汰で乗馬ズボンなど数年ぶりの思音だが、ここに来て連日の足慣らしですっかり勘を取り戻している。 そうなれば、まだまだ摩利の及ぶところではないのだが。
「では、お帰りは夕方かしら? いってらっしゃい! 気をつけて!」

ペルチャッハ近辺

 オシアッハ湖周辺は針葉樹が生い茂る険しい斜面で、ペルチャッハ湖ほど開けていないので観光客はほとんどない。 日差しがまだらに差し込む林の中を、思音の栗毛が先に立ち湖沿いに進んでゆく。 樹脂の香(か)か、甘いような薫香がかすかに漂う。 摩利は、白馬の上でこの不思議な香気を胸一杯に吸い込んでみた。横にはオシアッハ湖の水が光る。
 帰途、ローゼックの町からは、スロヴェニアとの国境になるカラヴァンケン連山が威容を見せた。 フェルデンの町を過ぎ、ペルチャッハ湖が見える道に出ると、半日、馬上で揺られた疲れも見せず、頬を高潮させた摩利が思音の横に馬を並べてきた。
「とうさま、ここから競争ですよ」
「いいでしょう」
思音の笑顔を確かめると、摩利は手綱を持ち直して膝頭に力をこめ、あぶみを蹴った。 気持ちよさそうに走り出した白馬の上で、摩利の柔らかい髪が風を受けて流れる。 思音の栗毛馬も後れずについてゆく。

 山陰に日が落ちて薄暗くなった別荘の裏庭で、思音が白馬の上から摩利を助け下ろしているところに、待ちかねたようにアグネスが駆けつけた。 ボーフォール公からの長文電報を思音に差し出す。スイスの別荘から出したものだった。 電報を読み進むに連れて思音の表情が険しくなった。
「摩利くん、すみませんね。とうさまはまた約束を破らなければならなくなりました。 やりのこした夏の課題はクリスマス休暇までの宿題にしてくれますか?」
「とうさま、気にしないで! ちょうど、今日は遠乗りも終ったし!」
事情を聞かなくても仕事の都合とさとり、摩利はつとめて明るい返事をする。 こんな風にませてゆく我が子を思音は不憫だと思うが、仕事を優先するしかないのが現実だ。

 1907年、フランスのブドウの価格が暴落した。 ブドウ栽培農民にとっては死活問題だ。 先行きの生活不安、鬱積した社会への憤りなどがない交ぜになって、県庁舎焼き討ちという形で爆発した。
 「外国にいては詳細がわからないので対策も立てられない。 私は情報収集のために至急パリに戻る。 場合によっては、自分でワイナリーに出向かなければならないだろう」と、ボーフォール公の電報の文面は終っていた。
 「公は自分のワイナリーの状況把握だけで手一杯のはずだから、私もすぐにでもパリに戻って取引先の様子を調べる必要があります。 アグネス、あなたは?」
アグネスの婚家S男爵家はそれこそワイナリーが本業だ。
「私もポワティエにいる男爵が心配ですから、とにかくパリに戻ります。 今度は、去年の夏のような騒ぎがパリにまで押し寄せなければ良いのですが」
 昨年の晩春から初夏にかけて、地方都市で頻発したストライキが手をつけられない状態にまで発展してパリでも流血事件が相次いだ。 元はといえば、3月に北フランスで起きた死者1200人以上の炭鉱の大事故が発端で、その補償問題がこじれにこじれて飛び火を繰り返した結果だった。
 ワイナリーが忙しい時期は一人暮らしを余儀なくされるアグネスは、里帰りと称してベルリンに避難した昨年の夏を思い出して眉をひそめた。

(2001.3.30 up)



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