4, ルディ


 ウルリーケと摩利の姉妹ごっこで、5月というのに時ならぬつむじ風がベルリンのメーリンク邸を吹きぬけた数日後、当主メーリンク子爵が別荘から急遽の帰宅をした。 英国からチェス友だちのスペンサー伯爵が「年来の勝負に決着をつけるために」訪ねてくると連絡があったからだ。

  「チェックメイト(王手)」
スペンサー伯爵は大きなルビーの指輪をはめた節くれだった指で、大理石のビショップ(僧侶)を、ごとりと黒曜石のキングの前に置いた。
「いや、これは。その手がありましたか」
メーリンク子爵は、白黒両陣のコマが散開したチェスボードを眺めて感服したように応える。 しかし、腹の中では「そんな手など先刻お見通しだが、遠来の客人には花を持たせるものだ。 チェスの勝負などより、これからの駆け引きが問題なのだ」と考えていた。

 スペンサー伯爵は肩幅が広く上背もあり軍人と間違われることも多いが、英国貴族院議員でことに外交関係に明るい。 今回メーリンク子爵を訪問したのも、旧知の友人を訪ねての私的な旅行とは表向きで、実態は大英帝国の元大臣とドイツ帝国の元大臣の相談事のためだった。 正式な政府交渉の下準備の一環に他ならない。

 1890年にビスマルクが辞任してウィルヘルム2世が親政を行うようになってから、ドイツは戦艦の建造に異常なまでの執念を燃やしている。 もちろん世界最強の英国海軍に照準を合わせてのことだ。
 けれども、この軍艦建造費用はドイツ帝国の財政能力をはるかに超え、赤字公債乱発の大きな原因になっている。
 その一方で、英国もかつての「栄光ある孤立」を貫ける状況にはなく、1902年に締結された日英同盟にはじまって各国との協調外交を模索している。
 そんな国際情勢の中にあって良好と言いがたい両国関係ゆえに、数年がかりの英独同盟締結交渉は遅々として進んでいない。

 チェスボードの横で、ふたりは眉間にしわを寄せながら大きな革張りの肘掛け椅子に身を沈め、昨今の外交の舞台裏事情を話し合う。 一線を退いたとはいえ、今でも政界に隠然たる影響力を持つ元大臣たちだ。 メーリンク邸2階の重厚で防音が行き届いた遊戯室は、格好の密談場所だった。
 メーリンク子爵が腕組みをしながらスペンサー伯爵の欧州各国の実情分析を聞いていると、古今東西のカードゲームのコレクションを納めた飾り棚の横で、古風な装飾もきらびやかな振り子時計が荘重に時を告げた。
「どれ、一息入れますかな」
メーリンク子爵が手元の呼び鈴を鳴らし、飲み物の用意を言いつける。
「もう、こんな時間ですか。やはりベルリンはロンドンより日が長いですな」
スペンサー伯爵がぴんと跳ね上げた口ひげをつまむようになでながら、視線を窓の外へ投げた。 夕方の散歩に出かけるつもりか、表玄関の車寄せにウルリーケの姿が見える。 淡い藤色の外出着とそろいの帽子から、遠目にもわかるみごとな金髪がのぞく。
「あの小さかった嬢ちゃんが、すっかり美人さんになりましたな」
「いやはや、いくつになってもやることなすこと、つむじ風で」
年をとってとみに気難しくなったメーリンク子爵だが、この孫娘を眺める時には目じりが下がる。 そのわずかな表情の緩みを、スペンサー伯爵は見逃さない。

「おや、あれは…」
「インドからの留学生でしたか、つむじ風が昨日からずっと連れ歩いていますな」
ウルリーケの傍(かたわ)らには、欧州を故国とはしないだろう浅黒い肌の若者が付き添っていた。
「あの異邦人は、いずれインド政界で要職につくはずなので、今からいろいろな国を見せておくのがよかろうと連れてきましたが、 ―― まあ、私がここに来るのに体(てい)の良い口実の一つ、というのが本音ですがね」
「あの孫は誰に似たのか好奇心が旺盛で、珍しいものには手を出さずにいられないので、困ったものですよ。 怖いもの知らずというのか。 しかし、語学の達者なインド人ですな。英語ばかりかドイツ語も身に付けているとは」
「あれには半分だけですが英国人の血も流れている、と言いますか、大きな声では言えませんが、実は家内の身内の縁者にあたりましてね。 そうでもなければ、子爵の大事なお孫さんの散歩のお供などさせられませんよ」
 スペンサー伯爵にしてみれば思いつきで連れてきた肌の色合いが違う若者で、メーリンク子爵が目に入れても痛くないほど可愛がっている孫娘のご機嫌を取り結べるのであれば、それは願ってもないことだ。


 ウルリーケは彼をルディと呼んだ。 異国の名前がどうしても発音できない彼女に、好きな名前で呼んでいいと彼が言ったからだ。
 鼻筋の通った彫りの深いアーリア系の顔立ちで、浅黒い肌に白い歯が映えた。 穏やかな話し方や、おっとりした物腰に育ちのよさが伺われる。 漆黒の髪の艶やかさは格別で、ウルリーケは自分の金髪が色あせて見える思いだった。
 「せっかく英国から長旅をしてきたのに、お部屋にこもってお勉強しているなんてもったいないわ。 ベルリンの春も素敵なのよ。私が案内してあげる。ね、そのかわりインドのお話を聞かせて下さる?」

 ルディの母の一族は、インドが小国に分かれていた時代の藩王家の流れを汲む古い家柄だ。 綿花栽培を大規模に手がけ、合衆国の南北戦争(1861年〜65年)で世界的に綿花が不足した時に巨万の富を築いた。 今なお綿花はインドの主要輸出品目なので、相変わらずインド有数の羽振りの良さを誇る一族だ。 しかも、ルディの伯父 ― 母の兄 ― は、インド国民会議の有力議員として英国から爵位を贈られた数少ないインド人だった。

 ルディの父は、英国からインド総督の補佐官として派遣された英国貴族 ― スペンサー伯爵夫人の身内の人だが ― で、インド本庁で開かれた夜会で、きわだった美貌のインド女性を見初めた。 インドの財閥一族にとって総督補佐官と懇意になるのは喜ばしいことであり、また、彼女自身も洗練された英国紳士に惹かれ、ごく自然に側仕えするようになっていた。
 補佐官には当然ながら本国に妻子があり、任期の終了とともにルディとその母をインドに残したまま帰国した。 が、母の実家はルディの誕生を無条件に歓迎し、祝福のうちに一族に迎えた。 度重なる飢饉や動乱でインド全土に凄惨で大規模な流血が絶えなかった時代を、ルディは、財界・政界に聞こえたインド屈指の名家財閥の御曹司として多くの召使にかしづかれ、母の情愛を一身に受けて育った。
 そして、彼が物心ついた時には母はひとり息子の利発さを何よりの自慢とし、財力と人脈を惜しみなく使って英国貴族並みの教育を受けさせた。


 「これがブランデンブルク門、上の4頭立ての馬車に乗っているのは勝利の女神よ。 ずっと続く菩提樹の並木道がウンターデンリンデン、そのむこうにベルリン大学や歌劇場があって…。 説明するより、歩いてみればわかるわ!」
 ウンターデンリンデンは大ベルリンでもひときわの賑わいを見せ人通りも多い。 母譲りのエキゾチックな美貌に恵まれたルディの容姿は、さすがに人目をひく。 言葉を交わしながら一緒にそぞろ歩くだけで、ウルリーケにも周囲の耳目が集まる。 が、彼女は悠然とした微笑で、むしろ得意気に好奇の視線を受け止めた。

 「ロンドンの大学に留学して何をお勉強しているの?」
「インド文官勤務試験を受けるために必要な科目全部です」
「インド文官勤務試験?」
「インド政府の重要な職務につくための試験です。 昔と違って今ではインド人も受験できるんですよ」
 インド国内の民族運動の高まりによって、19世紀半ばになって、インド人にもようやく自国の高級官僚試験の受験が認められるようになった。 ただ、試験会場はロンドンのみで、英国の大学へ一定期間留学しなければ受験資格は与えられない。
「まあ、大変なのねぇ。私と1歳違いということはまだ17歳でしょ。」
「ええ、でも、この試験を受けられるのは19歳までですから、今のうちに勉強しないと。 それに、僕は一日も早く文官になって、伯父さんの手伝いをしたいから」
「19歳までしか受けられない試験?」
 受験資格を認めたとは言いながら、英国政府はあの手この手でインド人の受験を制限している。



 8月も中旬となると、夕暮れ時の風は秋の気配を運んでくる。
 ―― ウルリーケは、今ごろインドの彼と再会しているかしら。
バルコニーの椅子でアグネスはため息をついた。 数日前、胸のうちに抱えた5月の出会い以外は何も目に入らない勢いで帰っていった妹の姿が、振り切っても振り切っても蘇る。。
―― 自分を溺愛する父母を捨てて異国の青年の元に走った叔母マレーネ。 叔母に瓜二つの妹ウルリーケ。 ふたりは似たような人生をおくるのかしら? …自分の恋愛を一番大切にできる人たち。

うらやましい?
 突然、もうひとりの自分が問い掛けてくる。
―― うらやみはしないけれど…
けれど? じゃあ、今のあなたの境遇は?
―― 何不自由のない優雅な男爵夫人…
を、立派に演じているわ。 ボーフォール公も思音も、いいえ、パリの社交界の人たち皆が、その内実を知っているのに。 滑稽だと思わなくて?
―― 滑稽でも、この役を引き受けると決めたから、私は3年前にパリに来たのよ…
何のために?

 「…ス! アグネス、どうしたの?」
摩利の声に我に帰った。
「え?」
「こんなに暗くなっても外にいるから。風も冷たくなっているのに。寒くない?」
「夕日を見ていたのよ。まあ、いつの間にか真っ暗だわ」
 日没とともに、山並みの向こうから雲が広がっている。 星明りも届かない闇の中で、ヒューッと鋭い音が湖面を渡ってこだました。
「笛? なんの合図だろう?」
湖をとりまく木立が、湿り気を帯びた風にさざめきだす。
「あれは鹿の声よ。このあたりでは、庭先でも鹿に出くわすことがあるのよ。夜の散歩は気をつけてね」
  摩利の肩に触れたアグネスの指先は、ぞくっとするほど冷えきっていた。 生身の心を押し殺す冷え冷えとした努力は、流れる血のぬくもりまで奪ってゆくかのようだ。
 ―― 摩利が、彼女の寒々しい心の内を知るのはもう少し先のことだが。

(2001.3.21 up)



3、ペルチャッハ / 5、窓ガラスの光景

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