3, ペルチャッハ |
アグネスの館の東翼、その突き当たりは小ホールになっている。
室内楽に手頃な広さで、ドーム型になった天井のほどよい残響が楽器の音色を引き立てる。 |
アグネスの館に通うようになって、もう一つ摩利が嬉しくて仕方ないことがあった。
それは、彼女が実にたくさんの楽譜を持っていることだ。
輸入に頼らなければならない日本の洋楽の楽譜事情がお寒いばかりなのは当然だが、フランスでもアグネスほど多彩にヴァイオリン譜をそろえている人は少ないだろう。 |
6月に届いた新吾からの小包は、思音の生活にも少なからずの影響をもたらした。 |
オーストリア略地図 (ただし、国境関係は1990年代のもの) |
「ようこそ! 待っていたのよ、旅行は楽しかった? イタリアは暑かったでしょう?」 |
8月半ば、バカンスの終わりの季節に、アグネスは、思音と摩利をヴェルター湖北岸の町ペルチャッハにある別荘に招待した。
ヴェルター湖はオーストリアの南端、スロヴェニアとの国境間近に位置するが、このあたりの湖沼地帯は昔から避暑地として知られ、ウィーンからの文化人やドイツからの観光客も多数訪れる。
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愛息子を欧州に呼び寄せておきながら、日頃は仕事に追われてまとまった時間が取れない思音は、「夏は摩利くんの専属になりますから、絶交しないで下さいね」と折に触れて、冗談を繰り返していた。 バカンスのシーズンでもパリにいると、思音ばかりか摩利まで断りにくい招待が多く、落ち着いて過ごせそうにない。 アグネスからの招待を受けて、夏の前半は父子ふたりで欧州各地を旅行し、後半はアグネスの別荘で摩利の勉強に専念することにした。 |
「私もすぐに戻るから、先におふたりにお茶を差し上げてね」 |
「おとうさまも、おかあさまも、ウルリーケはこのままペルチャッハにいて良いとおっしゃっていたでしょう。
それなのに、どうして、あなたまでベルリンに戻るのかしら?」 (2001.3.9 up)
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