25, 手紙



 摩利は自信たっぷりに断言したが、5月中旬過ぎても新吾からの手紙が届かなかった。 今日こそ必ず明日こそきっとと思っている間に、5月も残り数日になった。
 ―― どうして絶対届くと言い切れたんだ?


 今まで考えたこともなかった。
 ―― それは、あいつが新吾でおれが摩利だからだ。
 ほかに答えようがない。
 ―― それだけで? 
 冷たくせせら笑う自分に、より尊大に問い返す。
 ―― それ以外なにが必要だ?
 自分で自分に尊大に振舞って、なんの慰めになるだろう。
 ―― 新吾ほど律儀に定期便を出していないのに、おれは勝手だ。 ……、新吾はおれの手紙が届かなければ、いらいらするだろうか?  それとも、「きっと摩利は忙しいのだろう」とひとりで納得しているだろうか?  そう、おれが返事を書くから新吾は手紙を書くわけじゃない。 新吾はおれに手紙を書きたいから書いている。……、おれは?
 4月に届いた新吾の定期便を読み直した。 新吾は、再来年は摩利と一緒に持堂院に進学するのを当たり前だと思っている。 言葉としては一切触れていないが、その大前提は行間に溢れている。
 ―― 新吾、おまえにとっては、敢えて書き綴るまでもない自明のことなんだよな。
 同封された手書きの入試問題を広げた。
 ―― おそらく今の時点でも半分はできなければ、再来年の合格はおぼつかないよなぁ…。 新吾は着実に勉強しているだろう。…帰国したところで、おれだけが不合格だったら? 
 メイドが扉を叩き、アグネスから電話が入ったと知らせた。
 「摩利? 急な話なのだけれど…。ごめんなさい、あさってのレッスン、都合が悪くなってしまったのよ」
 「日時の変更ですか? かまいませんよ、ぼくは」
 「それがね、申し訳ないのだけれど…」


 アグネスの旅だちは突然だった。
 ウルリーケが帰国する直前から、彼女はドイツの親戚中に手紙を出して、音楽の道に進みたいと訴えた。 大多数の親族は、その類稀(たぐいまれ)な才能を埋もれさせるのは惜しいという意見でまとまった。 親戚一同の後押しを梃子(てこ)にアグネスは祖父メーリンク子爵を説き伏せた。 昨年、祖母が摩利と思音をメーリンクの館に招待した時と同じ手法だった。
 祖父の了解をとりつけたことをアムステルダム音楽院のフレッシュに速達で知らせると、折り返し、音楽院の事務局から「できるだけ早く来られたし」と電報が届いた。 電報を受け取って2日後にアグネスはヴァイオリンを抱えてパリ郊外の館を出た。
 「『できるだけ早く』と言われたって、4年ぶりの里帰りもせずパリからそのままアムステルダムに行ってしまうなんて!  私ばかりがつむじ風と言われるのは、割に合わないわ」
 話を伝え聞いたウルリーケが、すっかりばら色にもどった頬をふくらませてぼやいた。
 「そりゃ、おじいさまの気が変わらないうちにというアグネスの気持ちもわかるけど。 マレーネ姫だってそうなのよね。おとなしそうなお嬢さまに見えても、思い定めたらこれっぽちも譲歩なんてしないのよ」
 メーリンク子爵は、「聞き分けの良かった孫娘が、いらぬ苦労をさせたせいですっかり駆け引き上手になりおった。 わしの外堀と言う外堀を埋めて、最後は中央突破か」と苦笑(にがわら)いした。 老子爵が最後には、「アグネスが外交官の道を歩めば…。いや、われながら愚にもつかないことを」とつぶやいていたと、後にアグネスは父から聞いた。


 あまりに急な話で、パリの友人知人にはほとんど連絡する暇もなかった。 彼女は「お別れのお茶会と称して、噂好きに根掘り葉掘り詮索されるより気楽だわ」と割り切った。
 馬車の窓から振り返ると、はるかかなたに執事や家政婦たちが自分を見送って立ち尽くすのがかろうじて見えた。 使用人といえども一緒に暮らして4年近くになる。どうしたってこみ上げるものがあった。
 「無理を通してしまったからのだから」
 ちょっとかぶりを振って自分に微笑み、ヴァイオリンのケースを胸に抱いた。
 駅ではすでにプラットホームに列車が待っていた。 乗り込む車両を捜すアグネスの目の前に、摩利とボーフォール公が現われた。
 「時間は聞いていなかったが、多分、この列車だと思ったんでね」
 公には館の引渡し方法の変更を相談するために、電話で出発の日程だけは知らせておいた。
 「わざわざ…お忙しい公が……」
 予想しなかった見送りを受けて、気持ちの片隅に閉じ込めておいた惜別の情が顔を覗かせた。
 「とうさまが、どうしても都合がつかなくて見送れないけれどよろしく伝えてくださいって」
 「ありがとう。思音にもよろしく伝えてね。お世話になりましたって。
 摩利には本当に悪いと思っているわ。レッスンを途中で投げ出してしまって。 『ます』は1楽章もできなくて。結局、シューベルトは一曲も通せなかったわね。ごめんなさい」
 「『ごめんなさい』は、おとといの電話で済んでいますよ、アグネス」
 気を使う時にませた口調になる摩利の癖を、彼女は良く知っている。 彼の口調が“おませ”ではなく年相応になるのはいつ頃かしら。
  微笑ましい想いと別れ際の感傷が彼女の心の微妙なひだに触れた。 摩利の顔を見ると、去年出合った頃は下を向いた彼女の目線が、今はほんの少しだけれど上向き加減になる。
 彼の物言いが“おませ”という言葉と無縁になるのも、そんなに先の話ではないかもしれないわ。
 そう考えた瞬間に、ふたりの視線がぱちっと合った。
 間の悪い沈黙が流れそうなところに、ボーフォール公がするりと話題を入れた。
 「アグネス、実は私にはひとつ気がかりなことがあるのだが…」
 ―― 公が気がかり? 
 アグネスと摩利がボーフォール公を振り返った。
 「パリ、いや、フランスという国が、あなたにとって忘れてしまいたい場所になってしまったのではないかとね」
 「いいえ、そんなことありませんわ」
 細い眉をあげて目を見開き、語気を強めた。
 「花の都ですもの。美しい音楽もたくさん聴けたし、楽しいこともたくさんありました。 従弟もいることですから、機会があればいつでも、また…」
 ―― おれは従弟、か。まあ、そうだけど…。でも…。
 「摩利も元気で…」
 アグネスが摩利の頬に接吻した。
 「おじいさまが許してくれてよかったよね」
 摩利の肩に置いた右手にはまだうっすらとインクのシミが残っている。
 「ええ、親戚中を巻き込んだ騒ぎになってまって」
 含みのない彼女の笑みに、摩利は置き去りにされるような気分になった。
 「皇帝陛下にも? 」
 できるだけさり気ない調子で口にする。
 「…? 皇帝陛下がなにか? 」
 アグネスは微笑んだまま摩利に問い返した。心当たりのない様子に取繕ったふうはない。
 ―― ヴィルヘルム2世のことじゃないんだ。 だったらいったい…? 
 子供連れの若い夫婦が摩利たちの横を早足で通り過ぎた。 眠いのかむずがっている幼児を、父親が「急がないと、すぐに発車だ」と抱きかかえて列車の中に姿を消した。 つられるようにあたりの乗客が数組、見送りの人たちに別れを告げて車内に向かった。
 急に周囲が静かになった。
 「じゃあ、ヴィルヘルムって誰なんだ? 」
 摩利のつぶやきがアグネスに聞こえた。
 「……? どちらのヴィルヘルムのことかしら? 」
 彼女が聞き返した。他意のない笑顔は相変わらずだ。
 「前にアグネスが、手紙を書いていた」
 行きがかりに乗じて摩利はぼそっと口走った。
 「手紙? 」
 言葉を終えないうちに視線を足元に落とした従弟を、彼女が不思議そうに見ている。
 「…愛していますって。冬に」
 うつむいたまま単語を並べた。
 「……」
 突然、彼女が摩利の腕をつかんだ。驚いて摩利が顔を上げると、アグネスが落ち着かない目で言葉を捜していた。
 「……でも、あの手紙は燃やしたわ。摩利も見ていたでしょう? 」
 話し方は変わらないが、二の腕をつかむ手に力がこもった。
 「摩利、あなたそのことを誰か他の人に…、」
 「誰にも話していない」
 「これからも内緒にしてくださる? 」
 ひとまずの安堵のあと、呼吸を整えて言葉を選ぶ。
 「その、彼に迷惑かけるから黙っていて欲しいの。あの、おばあさまとかウルリーケとか、あの…」
 決まり悪そうにちらちらボーフォール公に視線をやりながら、小声でつけくわえた。
 「えっと、その、思音にも」
 ―― とうさまの知っている人? やっぱりおばあさまの茶話会に来ていたんだ。 おれがドレスに着替えている間に、とうさまは大勢の人に引き合わされていたし。 あ、前にウルリーケが言っていた“昔遊んだことのある遠縁の男の子”かもしれない。
 「ベルリンにいる人? 」
 アグネスは摩利の問いにあいまいにうなずいて、しきりとボーフォール公を気にしている。
 ―― その人はベルリンにいて、おれはパリに残る。 そして、アグネスはアムステルダムに行く。彼女が行くと決めたから。
 ああ、やっぱりと思った途端、摩利は聞かなくてもわかりきったことだったのにと自分に嫌気がさした。
 「公はとうさまに話したりしませんよ」
 とりなす口調はませガキに戻っているが、別れ間際にすねた自分が恥ずかしくてボーフォール公には背を向けたままだ。
 公爵は、目前の従姉弟のやりとりを凝視するでも視線をそらせるでもなく、巧みに、知人ではあるが部外者という距離を保ってたたずんでいる。
 アグネスは摩利の肩越しに一瞬視線を投げて公の姿を確かめると、「そうね、そんな心配は公に失礼だわ」と、摩利に向かって小さくうなずいた。 ほっとして少しは気分が落ち着いたらしい。
 「もしかして…、摩利、今まで、その人のことを気にしていたの? 」
 そう考えると、あの夜以来の摩利のぎくしゃくした態度の説明がつく。
 「ヴィルヘルムにはいろいろ相談に乗ってもらって、感謝しているわ。ええ、おばあさまたちはご存知ないけれど」
 どうしようかと迷ったらしいが、低いけれど柔らかい声で続けた。
 「摩利には見られてしまったのだから仕方ないわね」
 自分にけじめをつけるようなはっきりした口調だった。
 「恋文も書いたことあるけれど、出せなかったの。 出すつもりもなかったし。出せないけど、その出せない恋文を書きたい時もあるわ。
 そうねえ、きっちり決まった音を出すより、フラジオレットでそっと押さえてふわっと音を出すほうがロマンチックなこともあるでしょう? 」
 もう一度、摩利の頬に接吻した。
 「私がこの話をしたのは摩利だけよ。 約束よ、内緒にしておいてね」
 摩利がうんと返事をすると、彼女はボーフォール公の方に向き直った。 これまでの話が聞こえていないはずはないが、それを彼がどう思っているか、アグネスは推し量れないし、その必要もないと思う。
 「お世話になりました。おかげさまで、私、パリもフランスも大好きになりましたわ」
 「それは実に喜ばしい。なによりの餞別だ」
 公が満足の笑みを浮かべた。
 「公もお元気で」
 女性の頬に儀礼的な接吻をしない公にアグネスが右手を差し出す。
 「では、フランスの紳士を代表してお礼を」
 ふっと笑うと、ボーフォール公は彼女の細い腰を抱き寄せて両頬にゆっくり接吻した。
 発車を知らせるベルが鳴る。
 「思音によろしく伝えてね。ウルリーケともどもお世話になりましたって。落ち着いたらお手紙書くわ」
 彼女は一息に言うと、公と目礼を交わして列車に乗り込んだ。


 新吾から手紙がこないまま、摩利は6月を迎えた。
 持堂院の入試が不合格だったら? 今のおれならありうる話だ。
 ベルリンへの留学、このままパリの父親と暮らす、どちらにしても居心地の良い場でそれなりに有意義な生活を送れるだろう。
 合格する自信がなければ帰国しないつもりか? 
 「冗談じゃないぞ、摩利」
 自分で答える前に、新吾の声が聞こえるようだ。
 …、でも、なぜ、手紙がこない? 
 考えても答は出ない。時間の無駄だ、悪い癖だと自嘲する。
 けれども、気がつくと、またいつの間にか同じ自問自答を繰り返してため息をついている。
 6月もこなかったら? 7月はどうだろう? 
 もう、日本は梅雨入りしただろうか。パリは花ざかりだ、新吾。


 「若さま」
 メイドが声をかけた。
 「伯爵がお呼びです」
 昼間、仕事の時間帯に父に呼ばれるのは珍しい。 そんなことを考えながら足を運ぶと、執務室で思音とボーフォール公が摩利を待っていた。
 「こんにちは、公。とうさま、およびですか? 」
 「君を呼んでもらったのは私だよ」
 テーブルの上に鍵の束ある。大小様々、10個以上がじゃらじゃらと束ねられていた。 中には摩利にも見覚えのある鍵が一つ二つあった。
 「さきほどアグネスの館の引渡しが終わった。 彼女の父上がわざわざベルリンから立会いに来たので、私も自分で出向いたというわけだ。 弁護士に任せても良いと伝えたのだが」
 「彼女の父上にすれば、最後は直接、公にお礼を言いたかったのでしょう」
 思音の言葉に摩利もうなずいた。
 「父上によると、アグネスは元気で、新しい生活に馴染もうと一生懸命やっているそうだ」
 ―― 落ち着いたらお手紙書くわと言っていたけれど、2週間ではまだまだこれからっていう感じだろうな。
 「全てが今までと違う生活になるのだから、並大抵のことではないでしょう」
 思音が公の言葉を引き受けて葉巻に火をつけた。
 「覚悟して行っても、その場に臨めば予期せぬ苦労はあるでしょうな」
 「思いがけない楽しいこともあるかもしれない。アグネスは音楽が好きだから」
 他人のことだと気楽に楽天的なことを言えるものだと、摩利は自分であきれる。 さっきまで、新吾の手紙がこないと落ち込んで、ぐちぐちと無意味な堂堂巡りをしていたくせに。
 執事が思音に来客を知らせた。
 「今日は午後からの来客は予定に入っていないが…」
 いぶかしげに思音が訪問客の名を尋ねると、執事が答えるより先にボーフォール公が意味ありげに言った。
 「おそらく断れないお客人ですよ、思音」
 公は懐中時計に目を落としながら、ほうっと軽い感嘆の声をあげた。
 「それにしてもずいぶん早かったな。先方さんはよほど気が急(せ)いているとみえる。 少々やっかいな話になるかもしれない。失礼だが私も同席しよう」

(2002.3.11 up)

(24) 小鳥 / (26) 梅雨入りの頃

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