22, シャンソンのように



 帰国した思音を迎えるのは摩利だけではない。 書斎には書類の山が待ち受けている。 父の多忙を知る摩利は、早々におやすみなさいと告げ寝室に移った。
 摩利も自分の寝室に戻るのは一週間ぶりだ。
 「破廉恥なる批判役よ、立ち去れ」
 胸元を飾るたっぷりした絹のボウタイをほどきながらつぶやいていた。
 ―― 節回しまで同じだ。ハレンチナル ヒハンヤクヨ タチサレ…。
 苦笑するしかなかった。
 ―― ボーフォール公はどうしてあんなに……。
 …、このあとはなんと続けよう? 続けようがない。
 自問自答して、もう一度、苦笑した。


 アグネスとの“痴話喧嘩”を見せても、ボーフォール公は摩利を慰めも責めもしなかった。 公にとっては何事もなかった ―― それだけだった。摩利はひとりでただ黙り込んでいた。
 いつもの習慣を変えるのもおかしな気がして、その夜も公の寝室で休んだ。 広い寝台にうつぶせた途端、半日に及ぶ自分の沈黙に耐えきれなくなって肩で大きく息をした。
 体(からだ)ひとつ離れたところで腕を枕に横臥するボーフォール公が口ずさんだ。
 「破廉恥なる批判役よ、立ち去れ
 シャンソンのフレーズのような響きだった。 いぶかしげな視線を向けると公が無造作な説明を返した。
 「アポリネールの短編小説の一節さ」
 「小説? アポリネール…? 公が好きな小説家ですか? 」
 「小説家…、ではないかもしれないが、彼は。 好きというか、まあ、私とアポリネールは大事なものを一つ共有しているんでね」
 「知り合いですか? 」
 「いや、全然」
 後世、詩人として世に名を馳せるアポリネールだが、未(ま)だ20代半(なかば)、異国から流れ込んで来たパリで、生活のためには筆名を変えていかがわしい小説も手がけたりもする身の上だった。 (この一節はその種類の小説のものではないが)
 特権階級でも別格の身分と財産を、生まれながらに享(う)けている公爵とは住む世界が違う。
 「大事なものを? 共有して……? 」
 「私も彼も、ギヨームというファーストネームを使っている」
 公のとらえどころのない話にはすっかり慣れた摩利だが、この時は言葉遊びに応じる気力はなかった。
 公が指先をシーツの上に遊ばせて物憂いリズムをとりながら口ずさむ。
 「コントラバス、ヴィオラ、ヴァイオリン…」
 ―― 今度は何の一節だろう。
 表情を読まれまいと摩利は無意識に枕に突っ伏した。
 「アグネスはヴァイオリン…」
 従姉の名前に摩利の背中がかすかに動いて、ちゃんと話を聞いていると公に告げる。
 「摩利、きみは? 」
 ―― おれ? 
 「ヴィオラはどうかね? 」
 この前うながされてリュシルのヴィオラを弾いた時、公に言われたとおり音程はとれた。 しかし、弦と弓とが触れ合っても楽器全体は共鳴せず、“ヴィオラの音色”にはほど遠かった。
 ―― おれの弾き方、つまりヴァイオリンを奏でるための力ではヴィオラは歌わない。
 「楽器がひとまわり大きくなるだけで力の具合が全く変わってくる。 自分の背丈より大きいコントラバスを鳴らすには、どれだけ力が必要か想像できるかね? 
 コントラバスにくらべると……、ヴァイオリンなど私に言わせれば触れただけで音が出てしまう楽器だ……」
 ―― 触れただけで音が出てしまう? 言葉どおりの話なのか、何かを例えているのか。 取り留めないのか、意味深なのか。
 「コントラバス、ヴィオラ、ヴァイオリン…」
 公が物憂いリズムをくりかえした。
 「私はどれもそれなりに音は出せるし、演奏もできる。アグネスはヴァイオリンだけだろう」
 摩利は枕に顔を埋めたまま話の核心を逃すまいと公の声に意識を集中する。
 「ところで、きみはダブルのフラジオレットはできるのかね? 和音というか、同時に二つの音をフラジオレットで弾くというのは? 」
 ―― ダブル? 普通のフラジオレットだって不安定になることがある。 
 「アグネスは難なくきれいに聞かせる。 つまり彼女は二音同時に非常に繊細微妙な力加減ができるというわけだ ―― コントラバスを鳴らすだけの力はなくても。
 そして、私はダブルのフラジオレットを必要とするようなヴァイオリン曲は演(や)らない。
 そこでだ、摩利。ヴィオラのつもりでヴァイオリンを弾いたらどうなると思う? 」
 ―― 力を入れすぎたらどうなるか? 
 「考えるまでもない。粗くなるだろう。濁りはしなくても、つぶれた音になる」
 ボーフォール公の極上のフランス語は摩利に昼の痴話喧嘩を思い出す暇を与えず、コニャックより心地良い眠りをもたらした。
 ―― またしても寝つきの悪い息子を寝かしつける父親か…。呆れるな。
 寝息で規則的に上下している摩利の背中に手をあて、楽しそうに自嘲した。



 ベルリンに帰るまでには仕上げればおかあさまへのお土産になるわ。
 膝に置いた刺しかけの刺繍を見ながらウルリーケは考えた。
 次は何色にしようかしら…、そうね、空色?
 目星をつけた色糸を手にとってみるとなんだか暖色が恋しくなった。
 やっぱり茜(あかね)色がいいわ。
 療養生活に近いウルリーケののどかさとは対照的に、使用人たちは館の引き払い仕度が始まってせわしく立ち働いる。
 この3年間フレッシュの名演奏にわいた小ホールは、ベルリンに運ぶ荷物が積み上げられてすっかり倉庫にさまがわりしている。 すでに今朝アグネスの指示でいくつかの荷物がドイツに向けて発送された。
 ウルリーケが光沢のある絹糸を針穴に通したところにアグネスが現われた。
 「あら、お帰りなさい。摩利のレッスンはどうだった? 」
 「ええ、いつもどおりだったわ」
 気のない返事だった。
 「そう…」
 ウルリーケは自分の手仕事にかかろうと聞き流した。
 「来週、オットーが来るでしょう? 」
 「ええ」
 「その前に、あなたが家出した本当の理由を説明してもらおうと思っていたのだけれど…」
 顔を上げると姉の真剣な眼差しに出くわした。
 「そっとしておくようにってお医者様に言われていたから、今までは聞かずにいたわ。 そうよ、おかあさまがどんな思いで黙ってあなたに付き添っていらしたのか、少しは考えてちょうだい」
 これは長い話になりそうだわと、ウルリーケは刺繍針を針刺しに戻した。
 「今日、思音がスペンサー伯爵のことを話してくれたわ。カーゾン卿暗殺未遂事件の話も」
 ウルリーケの顔色が変わる。アグネスが見逃さず問いただした。
 「いつまでもベルリンに帰らないのはなぜ?  婚約破棄がはっきりしたらインドの彼に会いに行くつもりなの?  それとも何かほかに理由があるの? 」

破廉恥なる批判役よ、立ち去れ:『涜聖』(青土社アポリネール全集2)より

(2002.2.11 up)

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