21, 進路



 「どうしました、摩利くん。ぼんやりして」
 思音の声に摩利はわれにかえった。
 何でおれはあんなにムキになったのか。 理由を知りたい気持ちより自分の記憶からあの一幕を消したいという気持ちの方が強い。


 「ロンドンの叔母さんのお手製ですよ」
 説明する思音に軽く会釈をして、メイドが銀の菓子器に盛ったかりん糖を摩利の前に置く。
 「わあ、なつかしいなぁ」
 自分の気を引き立てるように摩利は声をあげて喜んだ。
 「『摩利くんのお土産に』と、叔母さんは私が帰国する前日に届けてくれましたよ。 おいしいうちにいただきましょう」
 思音のロンドンのオフィスに姿を見せたロンドンの叔母さん、つまり思音の妹は、「この霧でしょう?  なんでもかんでもが湿気やすくて困ってしまいます」とこぼした。 かりん糖を詰めた茶筒缶は胴と蓋の継ぎ目に目張りまでしてあった。
 「今朝、揚げたものですけど、油が回らないうちに食べてくださいね」という妹の言葉を思い出して、思音も故国をしのばせる素朴な菓子をつまむ。
 しきりと銀の菓子器に手を伸ばしながら、摩利はどこか上の空だ。
 ―― 新吾くんが送ってくれた試験問題が気がかりなのだろうか。
 今、摩利が持堂院に合格する確信を持てないのは無理からぬことだと思音は思う。 日本語の授業の約束をいつも反故(ほご)にする“家庭教師”は他ならぬ自分だ。
 「持堂院の受験に備えて、そろそろ日本から家庭教師を呼びましょうか」
 黒砂糖をまぶしたかりん糖の甘さが広がる口から、ほろ苦い自責を含む言葉が出る。
 「今から急いで手配してもこちらに到着するのは二月(ふたつき)は先になるでしょう。 それじゃあ、せっかく日本から来てもパリで教えてもらうのはほんの数ヶ月になってしまいます」
 「パリに留学している日本人の中から探すという方法もありますよ。それなら、さほど時間はかかりません」
 「……」
 「ただ、摩利くんが持堂院に進むことを望まないなら、私はそれでも良いと思っています。
 そう、メーリンクのおばあさまが摩利くんをベルリンに迎えたいと言っていることは、この前、話しましたね。 それも一つの道です。 叔母さんの居るロンドンに留学しても良いし、むろんパリで私と暮らしながらこちらの学校に進学するのも良いでしょう。 きみが望むのであればどれでも正しい道だと思いますよ」
 ―― 持堂院、ベルリン…、進路を決めなければならないのはおれも同じなのか。 いや、アグネスもウルリーケもベルリンに6月には帰ると断言している。 そうすると、決まっていないのはおれだけか…。
 かりん糖はさくさく音を立てて口の中で崩れる。 その歯切れよさとは裏腹に、自分の答えが煮え切らないのが歯がゆい。
 ―― だからと言って、忙しいとうさまに心配をかけたくない。
 4日前の記憶がふと頭をもたげ、自分自身への欺瞞をあざわらう。
 ―― おれの中に、とうさまに話せないこと、話したくないことが増えているだけだ。
 「ええ、とうさま。おれも、もう、決めなければならない時期だと思います」
 明るく返事をしてみても、そのぎこちなさは明白だった。しかし、思音は笑顔でうなずく。
 ―― 息子を信用しているといえば聞こえはいいが放任と紙一重、親としては無責任だとボーフォール公には非難されそうだ。


 「そう言えば、ボーフォール公の英国製の自動車はどうでしたか?  アグネスの館へのドライブは快適だったと聞きましたが」
 いくつ目かのかりん糖をつまみかけた手を止めて、摩利が目を輝かせて答えた。
 「素晴らしいです! それにね、ボーフォール公はエンジンまで自分でかけるんですよ!」
 「ほう…、それは大層な凝りようですね」
 生まれてこの方、自分で髭(ひげ)を剃ったこともない公爵が自動車のクランクハンドルをまわすとは、我が目で見なければ誰も想像できない姿だ。
 「ええ、アグネスが危ないからってさんざん止めたのですけれど…」
 快活な笑顔を取り戻して、摩利が語った。
 あの午後、ボーフォール公が辞去の挨拶をすると、アグネスは執事に公の自動車のエンジンをかけるために下男を呼ぶように言いつけた。 だが、公はその必要はないと丁重に断った。
 「固いクランクを回して筋肉痛になったとか、クランクが逆回転して親指を骨折したとか、物騒な話も多いし…。 この館からのお帰りに公がお怪我でもしたら、私は…」
 なおもためらうアグネスの横でウルリーケも心配顔だ。 皮帽子をかぶり手袋をはめた公はにこりともせず、彼女たちの不安をあおる言葉を口にする。
 「世の中には逆転したクランクであごの骨を折って死んだ人もいますよ。 覗き込むような姿勢でまわしていたらしくてね」
 女性たちの心配をよそに、数回クランクをまわすとシルヴァーゴーストは難なくエンジンがかかった。
 「ようし、いい子だ」
 愛馬の鼻面でもなでるようにボンネットを叩いて、「親指骨折は珍しい話ではありませんが…、まあ、コツがありましてね。ハンドルを握りこむから骨折する。 親指を人差し指の側に添えておけば逆転しても大丈夫ですよ」


シルヴァーゴースト1909年型


 「あのボーフォール公がクランクハンドルの回し方のコツなんて説明するものだから、アグネスもウルリーケも大笑いで…」
 確かにと笑いながら、思音が聞き返した。
 「では、ウルリーケもだいぶ元気になったのですね」
 「ええ、この前あった時よりずっと顔色がよくなっていました。 そしてね、とうさま、アグネスには内緒で聞いた話だけど、とうさまには話します」
 ウルリーケのうれしそうな様を思い出すと自然と摩利の顔もほころんだ。
 「インドの彼の居場所がわかったんですって。ロンドンの大学の寮に入っているって。 とうさまは、またロンドンに出張することもあるでしょう? その時には…」
 「大学の寮に? 」
 突然、思音の声が気遣わしげになった。
 「ウルリーケは誰からその話を聞いたのでしょうね」
 「スペンサー伯爵から聞いたって…」
 摩利の答えに思音は眉をひそめて考え込んだ。
 「それは確かな話かもしれないが…。いつ頃ウルリーケが聞いた話なのか…」
 「伯爵が2月にベルリンに来た時に聞いたって言っていました。 その話を聞いてウルリーケは家を飛び出してしまったんですって」
 「2月にですか…」
 しばしの沈黙の後、思音が結論を出す。
 「私が先日ロンドンで聞いたスペンサー伯爵の話を、早くアグネスに知らせた方がよさそうです」
 「アグネスに? 」
 「むろん摩利くんがウルリーケから聞いた話はアグネスには内緒にしますよ。 そうですね、スペンサー伯爵の話は摩利くんにも話しておいた方がよいでしょう」


 同じ頃、アグネスとウルリーケは、ベルリンから届いた一通の手紙を前に困惑していた。 差出人はオットー・フォン・カウアー、ウルリーケの婚約者本人だ。
 「それがね、パリまで私に会いに来るというのよ。急にどうしたのかしら? 」
 ウルリーケが家出してから今日まで2ヶ月以上、オットーからは何も連絡がなかった。 けれども、婚約の行方がはっきりするまで当人同士は顔を合わせないほうが良いと、メーリンク子爵とカウアー男爵が相談したのだろう ―― ウルリーケもアグネスも漠然とそんなふうに考えて納得していた。
 館に滞在中の男爵との会話を思い出しながら、アグネスが尋ねた。
 「そういえば、カウアー男爵は、私にはオットーのことはなにもお話しにならなかったわ。あなたにはなにかおっしゃった?」
 「いいえ…何も……」
 婚約の解消が決まって、それを発表する前に形式的な本人同士の話し合いをするための訪問? 
 無言のうちに同じことを考えてふたりが顔を見合わせる。
 「あなたはどうするつもり? 」
 「オットーはなにも悪くないわ。むしろ被害者よ。全部、私のわがままだもの…」

(2002.2.4 up)

(20) 痴話喧嘩/ (22) シャンソンのように

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