20, 痴話喧嘩


 離婚話は、メーリンク家の体面やP侯爵家の面子をはかりつつ結局は金銭のやりとりになってしまう下世話な交渉だった。 祖父の意向を受けた弁護士と相談しながらも、最後はアグネスが自分で落とし所を決めた。
 その結論を踏まえてこの館の明渡し条件も事細かに定められ、ボーフォール公とアグネスは覚書を取り交わした。
 ウルリーケが居ついて帰国を渋っているのはアグネスにとっては予定外だったが、ボーフォール公は多少の、彼にとっては取るに足らない金額を受け取って、アグネスが6月まで館を使えるように融通した。 無償でないほうがアグネスも気を遣わずにすむだろうとの配慮からだった。

 館についての相談が済むと、公はアグネスにS男爵が30そこそこの年齢で隠居の身となり、ワイナリーの経営はP侯爵家の手に移ることになったと知らせた。
 「いや、あなたへの不義理のせいばかりではありませんよ」
 お茶の時間の世間話を流すように、公は彼女の夫だった男の消息を語った。
 「ワインの国内市場の動向も読めない経営手腕のなさがもともとの原因です」
 ボーフォール公がくつろいで深く掛け直すと、革張りの椅子がかすかにぎしっと鳴った。
 「わが国における中級ワインの過剰供給は昨日今日の問題ではないが、P家の助言にも耳を貸さず手をこまねいたまま、かの御仁の無為無策に老侯爵があきれていたのは、アグネス、あなたも良くご存知でしょう? 」
 彼女に責任はないと言葉を足す公にちらりと視線をやって、アグネスはちょっと困ったような顔で軽くうなずいた。
 ―― 私がパリに住んでそろそろ4年。 でも、男爵には夫としての情が移る暇もなかったわ。 いっそ、嫉妬でもできればまだ救いもあったかもしれないけれど。いいえ、こんな風に考えられるのも全てが終わってしまったことだからだわ。
 人前でため息もつけず、さりげなく話の焦点をずらして答えた。
 「P侯爵には、私がこちらに来る前からお世話になりっぱなしだったけれど、後始末もお願いすることになりましたわ」
 「あなたが気にすることはありません。P侯爵は当然のことだと思っていますよ。老侯爵のお父上とS男爵のお祖父さんは“盟友”だったからと…。
 おや、この話、P侯爵から聞かされて、いや、聞かせてもらっていませんか?」
 ボーフォール公のくすっと笑った。アグネスも緊張が解ける。
 「1848年の2月に、P侯爵のお父上とS男爵のお祖父さんは所用でパリに行きましてね、今からちょうど60年前のことになりますな。
 オルレアン家のルイ・フィリップがフランス国王だった時代ですが、この年のパリはとりわけ寒さが厳しかったそうです…」
 当時、農作物の不作から始まった数年来の不況で、民衆ばかりでなくブルジョア層にも困窮が広まり、破産や失業が世に溢れパリの貧民街はフランス中の困窮者の吹きだまりになっていた。
 食料や賃金の支払いを求めて暴動やストライキが全国に広がる中、政治家の汚職事件や、名門公爵が貴族院議員の息女である妻を虐殺して自分も獄中で砒素をあおって自殺したなどショッキングな貴族のスキャンダルが続いた。 政治や上流階級への信用そのものが失われていった。
 マドレーヌ広場に民衆が集結したのが2月22日だった。 23日、齢(よわい)70を越えた国王は内閣改造で事態収拾を図るが、新たな組閣は難航する。 その夜半、正規軍がデモ隊に発砲した。それが民衆蜂起の合図となった。
 よもやの、ほとんどの人が予期していなかった革命勃発となった。24日正午過ぎ、ルイ・フィリップは退位した。
 「パリ市庁舎が蜂起した民衆に包囲され、いたる所にバリケードが築かれた市内を、ルイ・フィリップ国王の英国亡命を助けるために、P公爵のお父上とS男爵のお祖父さんは馳せ参じたのだそうですよ。
 国王の脱出用の粗末な馬車が2輪馬車だったり4輪だったり、その時によって老侯爵の話の細部は違うが、流れ弾で負傷したお父上をS男爵のお祖父さんが応急の止血をしていたら、王后がふたりに感謝の言葉を掛けてくれたというくだりは変わりません。
 お父上に繰り返し聞かされたP侯爵は、今ではご自分がその場にいたような語り口です。 あなたもパリを離れる前にぜひ一度、聞かせてもらうといい。ただし、時間が充分にある時に限りますがね」
 ボーフォール公は片目をつぶって歴史物語を終えると、笑顔で付け足した。
 「ともあれ、そんな事情から老侯爵はついS家の面倒はみてしまう」
 ご自分を隠居爺(いんきょじじい)とお呼びになる気さくさの中に大貴族の硬骨を潜ませる老侯爵にお似合いのエピソードだわと、アグネスも微笑んだ。

 「それはそうと、フレッシュ氏はなんと言っていましたか? 」
 彼女の笑顔を見すまして、公が世間話の体で水を向けた。
 「なんととは? 」
 「最後のサロンコンサートの後、あなたがアムステルダム音楽院でのお仕事を断った時の彼の返事です」
 「まだ、時間はあるから良く考えてと言われ…」
 巧みな誘導尋問にかかったと気付いたアグネスは、即座にいつもの答えを上塗りした。
 「でも、考える余地などありませんわ。祖父が許すはずが…」
 ボーフォール公は聞き飽きた返答を最後までは聞かない。
 「では、メーリンク子爵が許せばあなた自身は行きたいと考えている訳ですね」
 「いえ、私は…」
 「あなたの気持ちとしては否定的な言葉が出てこない。で、どうして許されないと決め付けるのでしょうな? 
 この2ヶ月間じっくりと見せてもらったが、あなたの交渉力はなかなかのものですよ。 根回しの大切さも、手立てのみつけ方も良く心得ている。 どれもメーリンク子爵にも通用するだけのものをお持ちだと、私は思いますけどね」
 「ボーフォール公爵ともあろうお方が、私に職業婦人になるようにけしかけていらっしゃいますの? 」
 ことさらゆったりした口調を意識しながら、一歩飛びのいた視点に立って冗談めかしに話をかわす。
 「さよう、けしかけています。
 確かにあなたは名門貴族の令夫人という役柄もよくお似合いだが、本領は音楽の方にあるように見えますよ。 それはご自分でもわかっているのではないですかな? 
 『両親の祖父母への気兼ね』をあなたはいつも口にするが、どうも私には口実めいて聞こえましてね。 …揉めごとを避けるための」
 冗談を逆手にとって、温厚な口調で容赦なく辛らつに核心をえぐり出した。
 ―― 公が本気になれば私の交渉力など歯牙にもかからないわ。
 2月からの館の明渡し交渉が、結局は公の温情で収まるところに収まったのだと一瞬にしてアグネスは悟った。
 「情が移る――。それで判断を誤る女性(ひと)だとは思わないが」
 アグネスが言葉の接ぎ穂を見つけられない間に、公はあっさりと言ってのけた。
 「ふたりきりで一緒にいる時間が長くて、血縁があって、同情すべき境遇の美しい婦人が、まして亡き母上に似ていると聞かされていればね。 そう、それで肌など触れ合えば駄目押し、完璧です」
 唐突で、あまりにあからさまな話に彼女は反発と怒りで赤くなった。
 しかし、今、ボーフォール公はアグネスのことを語ったわけではない。 根拠もはっきり示されない言葉に動揺し頬を染めた時点で彼女の完敗だった。 自分に注がれる公の視線を痛いほど感じながら、とても顔を上げられない。
 「情(じょう)ですからね、理屈では解決しない。特効薬は、時間と距離 ―― できれば物理的に ―― を置くことです」
 静かな声で言うとボーフォール公はすっと立ち上がり、自分で扉を開き居間に向かった。

 アグネスは何事もなかったかのように、やや遅れて居間に現われた。 一同に遅くなったいいわけもせず、彼女はボーフォール公と摩利の前でウルリーケに申し渡した。
 「公にお願いして6月までは私たちがここで過ごせるようにしてもらったわ。 これが私があなたにパリでしてあげられる最後のことだと思って頂戴。
 使用人の身のふり方もあるし、引き払いの日程を引き伸ばすのはそう簡単なことではないのよ。 いいわね、これ以上のわがままは叶わなくてよ」
 「ありがとう。無理言ってごめんなさい」
 妹の素直な反応にかえって不安を覚えたアグネスが念を押した。
 「本当に、もう、2度目の家出はなしよ。 これだけ帰国を引き伸ばした挙げ句に、あなたに出奔されたら私、おじいさまに言い訳できないわ」
 小半時前にウルリーケにロンドンへの旅行を持ちかけた摩利は、自分がクギを刺されたような気分になってうつむいた。
 ―― いつだって、アグネスはふたこと目には、おじいさま、おじいさま、だ。 ちっともウルリーケのことを考えていない。あんなにうれしそうにインドの彼の話をしていたのに…。
 会話の途切れた場を繕って、アグネスはボーフォール公に車の話をもちかけた。
 「フランスの自動車技術が世界一だとおっしゃっていた公が英国の自動車を運転なさるなんて、驚きましたわ」
 ボーフォール公は、顔を伏せておそらくは唇をかんでいるだろう摩利を目の端に入れながら、アグネスの問いかけに応じた。
 「年年歳歳、各国の技術は個性をもって進歩しています。 フランス車の不備の多さに嫌気がさして、満足する車を自分で作ろうと結論を出した英国人がいましてね。 彼が行き着いたのがシルヴァーゴーストです」
 ふたりの当り障りのない会話に摩利は腹が立ってきた。
 ―― いつだってアグネスは肝心なこと自分のことは、はぐらかすんだ。
 突然、摩利が声をあげた。
 「それで、アグネスはアムステルダムに行くの? ベルリンへ帰るの?」
 彼女は摩利の詰問の真意がわからず当惑する。
 「ベルリンに帰るわ。決まっているでしょう」
 アグネスの駄々っ子をなだめるような口調が、子ども扱いされたようで摩利は癪に障った。
 「なぜ決まっているの?」
 細い形の良い眉を吊り上げて、ソファから身を乗り出す。
 「どうしてアムステルダム音楽院に行かないの? ドイツに会いたい人がいるから? 誰か待っている人がいるの?」
 ―― 困ったわ、ボーフォール公の前で。ねえ、摩利、落ち着いて。公は私たちのことに気付いているのよ。
 「おとうさまも、おかあさまも、一日でも早く戻っておいでと言っているわ。おじいさまだっておばあさまだって、待っていて下さるし…」
 アグネスの困惑は摩利の猜疑心を掻き立てた。 紋切り型の優等生の模範解答に神経を逆なでされて、両の拳(こぶし)でテーブルを叩かんばかりの勢いで食い下がる。
 「そうじゃなくて! ぼくは、アグネス、あなたが、ベルリンへ帰りたいと思う理由を聞きた…」
 アグネスが座ったまま摩利の方に向き直り、内心の焦りから彼の言葉をさえぎって早口で断定した。
 「家族の待っている故郷に帰りたくない人なんかいないわ!  摩利、どうしたの? わかりきっていることをそんなに!」
 ウルリーケがころころと笑いながら姉をからかった。
 「なあに、アグネスまでムキになって。まるで、摩利とアグネスの痴話喧嘩を見ているようだわ」
 水を打ったような静寂が広がった。  

(2002.1.28 up)


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