17, カウアー男爵父子


 4月のサロンコンサート当夜――。
 アグネスの館にはカール・フレッシュの演奏を間近に聴ける最後の機会とあって、知人縁故だけの集まりにもかかわらず小さなホールは聴衆があふれるほどだった。
 予定通りカウアー男爵もドイツから顔を出した。 オットーとウルリーケの婚約の行方を決めるだろうカウアー男爵の訪問には、メーリンク子爵も理の当然として同席する予定だった。 だが、外交がらみ事情がベルリンを離れることを許さなくなり、直前になって出席を断念した。
 そのおかげでというのもおかしな話だが、摩利は楽しみにしていた演奏会に父とともに臨んだ。

 演奏が始まるまでの待ち時間に、あるいは演奏の合間に、令嬢たちがひっきりなしに口実を見つけては摩利に話しかけ機嫌を取り結ぼうとする。
 かと思えば、どこで聞き込んだのかと思うような立ち入ったことを上品な言葉でずけずけと、しかも言外にこめられた問いかけの真意が誰にでもわかるような物言いで訊いてくる人種も少なくない。
 「ベルリンへ留学するかもしれないのですって? 」(そんな田舎に引きこもってどうするの? )
 「あなたのお美しい従姉さまは、いつベルリンにお帰りになるの?」(慰謝料は莫大なのでしょうね)
 誰を相手にしても、摩利は平然とにこやかに当り障りのない受け答えをする。 それを、大分離れた場所から栗色の髪の少年が、興味津津の風情ながら底意地の悪さを潜ませた眼差しで観察している。
 噂雀の攻勢が容赦ないのはベルリンもパリも変わらない。 サロンコンサートの間、ウルリーケは大勢の人に会うのはいやだと部屋に引きこもっていた。 病み上がりの彼女に社交の場に出ることを無理強いする人はない。 が、アグネスはウルリーケに気を許してはいない。

 数日前、アグネスは思音からの電話を受けた。
 「ウルリーケも一度ロンドンへ行けば気が済んで、ベルリンへ帰ろうという気になるかもしれません。 かなり身体も回復しているようですから、次回の私の出張に同行するのも一つの方法だと思いますが。 英国ことにロンドンは、私もなにがしの便宜を図れる場所なので、遠慮なさらずになんでも言いつけてください。
 表向きは私と摩利、そして、アグネスとウルリーケの2組に分かれて旅行するようにしておけば、傍目もうるさいことは言わないでしょう」
 「パリでただぼんやり過ごしているウルリーケを見かねてことと、ご厚意はありがたいのですけれど。 それに、ドーヴァーでは役人相手に、思音が普通の人には出来ない融通をつけて下さったのはよくわかっております。 でも、このお話はお受けする訳には行きませんわ。
 あれだけ思いつめていた理由を、あの娘(こ)はまだ一言も明かしていません。 家出の動機は一切不明のまま、今でも何を考えているのか本当のところは誰にもわかりません。
 もし、ロンドンに連れて行って、そこでインドの彼と示し合わせてインドに駆け落ちでもしたら、私は両親にも祖父母にも言い訳できませんわ!  ……、あの、私の一族には以前、恋に溺れ家族を捨てて、遠い異国へ飛び出したお姫様がおりますのよ。 ウルリーケを二人目にする訳に行きません」


 盛大な拍手でアンコールを繰り返してサロンコンサートが終わった。 盛況のうちにも次のない寂しい余韻の中を客が三々五々に引き上げる。
 親戚縁戚の十人足らずだけが居残り西翼の応接室に移ると、夜更けにもかかわらず病み上がりの面やつれを隠せないウルリーケが姿を見せた。 いきさつを知る身内の人々は、顔見知りの集まりには加われるまでに回復した彼女を、特別な言葉や態度を控える暖かい配慮で迎える。
 アグネスは、カウアー男爵をP侯爵やボーフォール公 ―― 血縁も姻戚もないが親戚以上の付き合いは誰もが認めている ―― はじめ一同に改めて引き合わせ、それぞれに夜食と飲み物が充分に行き渡っていることを確認すると、「フレッシュ先生と少しお話がありますので失礼します。すぐに戻りますわ」と席をはずした。

 思音はメーリンク子爵への気兼ねもあって、一族の顔合わせの場には出席を控えるつもりだった。 けれども、「思音はウルリーケの命の恩人ですもの。 まだ、ウルリーケは一応はカウアー男爵のご子息の婚約者なのだから、ぜひ、残ってください。ええ、男爵にはよくご説明しておきますから」というアグネスの言を容れて、摩利を伴ってカウアー男爵に挨拶をした。
 「今回は滞在日数も短いので、家内ではなくて末息子がお供です。 長男とは13も年が離れているので、よく孫と間違われるのですがね」
 ヘーゼルの頭髪にも口ひげにも白髪が混じるカウアー男爵は人好きのする大らかな調子で、自分とはあまり似ていない栗色の髪の少年をふたりに紹介する。 ウルリーケより一つ年下、摩利より二つ年上のこの少年シュテファンは無言で思音と握手をかわした。
 「ふーん、東洋人は貧相で小柄だと思っていたけど別格もあるのだな。 それに、フランス訛りがないぶん下手なフランス人よりよりずっと流暢なドイツ語を喋っている」
 思音のエレガントな雰囲気にいささか気おされるが、少年の意固地さでほめ言葉を口に出すことはない。
 ―― これから数年後、留学生として渡欧する新吾に会うまで、思音はシュテファンにとって唯一の“別格”の東洋人になる。

 大人たちが身内の社交会話を始めた。 それは通常の社交よりかえってある種気を使うものだが、今夜は名演奏の数々を聞いた後なので話題の箸休めに事欠かず、気楽に場が和む。
 摩利とウルリーケは、今日のサロンコンサートの模様説明から始まって、いとこ同士の気のおけない会話が弾んだ。 ふたりの「とうとう身長が逆転した」、「いいえ、まだ、同じようなものよ」とはしゃいだやりとりに、皮肉な微笑を浮かべたシュテファンが割って入った。
 「今日はドレスを着なかったんだな。ぼくは楽しみにしていたんだが。 君はイタリアンレースのえり飾りの白いドレスがすごく似合うそうだから」
 「シュテファン! なに、急に! 失礼だわ!」
 ウルリーケの一言は間髪いれず鋭かった。 母や姉には見せていないつむじ風お嬢さんの気力の回復ぶりだ。
 「女に庇ってもらうのだな」
 シュテファンは一瞬たじろいだが、摩利がとっさにドイツ語で答えられない間に畳み掛けた。
 「まあ! 呆れて物も言えない! 摩利、相手にすることないわ」
 侮辱された摩利本人よりウルリーケが憤(いきどお)っていることに、シュテファンはいっそう苛立ちをつのらせた。
 自分への嫌味だけなら聞き流しもするがウルリーケを侮辱するようなら気の利いた皮肉の一言も返さなければなるまいと、摩利は手持ちのドイツ語をかき回しながらシュテファンの出方を見守った。 だが、その時、応接間の重い扉を開いたアグネスに一同の視線が集まり、そこまでとなった。

 「おや、おひとりで。フレッシュ先生はお見えにならないのですか? 」
 「明日が早いそうで、もうお休みになりました。皆様には失礼して申し訳ありませんと言付かっています」
 誰からともない問いにアグネスが答えた。かすかに脱力感が漂っている。
 ―― この部屋を出てゆくときには、特に疲れた様子は見せていなかった。 だいたいにおいてサロンコンサートのあとは接客疲れより、良い演奏を聴いた高揚感が先にたつ女性(ひと)なのだが。
 ボーフォール公が、他人には気付かれないほどわずかに眉をひそめて、しかし、親愛の情がこもったからかうような陽気な声音を作って尋ねる。
 「フレッシュ先生に、なにか難しい宿題でも出されましたかな? 」
 「いえ、別に」
 腕組みをしたままアグネスに向けられたボーフォール公の目は、彼女の短い返答に納得せず、「そんなはずはないでしょう」と無言の問いかけを重ねている。
 「実は、アムステルダム音楽院で教鞭をとらないかというお話を頂きましたの」
 大ニュースに座がどよめいた。 摩利は、視線だけでアグネスに重大発表を促したボーフォール公の横顔を盗み見た。 いつもの完璧なポーカーフェイスだ。というより、まだ摩利には公の微妙な表情を読み取れない。
 「思いもよらないことですが、今までの私のレポートや論文を評価して頂けたそうです。 もちろん、最初は補助職(アシスタント)からですけれど」
 「いや、充分素晴らしいことですよ!」
 口々に祝福の言葉が広り、気が早くもいくつものワイングラスを掲げられた。
 「フレッシュ先生が演奏活動、そして、いよいよ念願のヴァイオリン教本執筆に力を入れたいという理由で、今年で辞任するのですって。 その後任のひとりとしてヴァイオリン科にというお話です」
 アグネスは一息に説明を終わると、同席者全員の喜色を冷ややかに受け止めて、乗り気の片鱗も見せず、ことさら自分を突き放すように話題を打ち切った。
 「もちろん、その場でお断りしました。 私が職業婦人になるなど祖父が許すはずありませんもの」

 ―― 好きなヴァイオリンの道に進める好機をみすみす見逃すなんて…。 それも職業演奏家ではなくて音楽院での教授だ。 いくらメーリンクのおじいさまが厳しい人でも、話してみるだけの価値はあると思うけれど…。
 いや、やはりアグネスはベルリンに戻りたくて仕方ないのかもしれない。 その理由と言ったら、どうしたってヴィルヘルムが居るからとしか考えられない。――
 摩利が我知らず唇をかみしめているのを、ボーフォール公は見逃さない。


 アグネスの館から小一時間かけてボーフォール公の馬車が、鷹塔伯爵のアパルトマンの前で止まった。
 「では、摩利くん、また不自由かけますが今回はすぐに戻りますから、すこし辛抱してくださいね」
 思音の出張を控え、摩利はその夜からしばらくボーフォール公のオフィスに寝泊りすることになっている。
 「大丈夫です。全然不自由なんかありません、とうさま。 それより、出張続きのとうさまこそ身体には気をつけて下さいね」
 思音が馬車を降り、かわりに摩利のお泊用の旅行鞄が積み込まれた。
 「はっは、また、摩利くんに気を使われて、相変わらずとうさま失格です。公、お世話かけますがよろしくお願いします」
 「なに、私こそ伯爵の出張の成果にお世話になるのですから、なんの気兼ねもいりませんよ。 第一、摩利ならあなたの出張の時でなくても、いつだって、そして、いつまででも我が家に迎えたいくらいです」
 思音と別れると、ボーフォール公は摩利の懸念の核心をさり気なく、しかしながら無慈悲なほど一分の狂いもなく突き当てる。
 「ベルリンなら君にも追いかける余地がある。ところが、アムステルダムではどうにもならない。 確かに、行った先に何が、いや誰が彼女を待っているかという別の問題もあるがね」
 摩利は、先刻のボーフォール公の水を打ったようなポーカーフェイスを思い浮かべて黙り込む。 吊るされたランタンの頼りない明かりの中で言葉もなく無表情なふたりを乗せて、馬車はエッフェル塔近くの角を曲がる。 一瞬、街路のガス燈が斜めに差し込み、膝の上で握りしめた摩利の拳(こぶし)の上に光が落ちた。

(2001.10.22up)



葉桜 / (18) ヴィオラ

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