葉桜 (はざくら)


 午後の日差しが差し込む茶の間で、しずは針仕事に余念がない。 ひとひらふたひら散り残った桜の花びらが縁側に舞い込んでくる。
 「母上、ただ今戻りました」
 新吾の声で目を上げると、歩く人の姿を映すほどに磨きこまれた廊下で淡い色の花片が有るか無きかの風に遊んでいる。
 「おかえり、新吾。お使いご苦労様」
 「おじいさまもおばあさまもお変わりなく、父上母上によろしくとおっしゃっていました」
 まあ、新吾も大人びた口ぶりが板についてきたことと、しずは手を休めて息子の顔を見上げた。 逆光で黒い輪郭になっている新吾の肩越しに見える庭の桜は、花びらを落とした濃紅色の花萼(かがく)もすでに若葉に埋もれている。

 「あ、おれの着物」
 新吾が畳に膝をつき、身を乗り出すように母の手元を覗いた。
 「もうすぐ汗ばむ季節になるし、そうすれば単(ひとえ=裏地のついていない着物)も着たくなるでしょう。 丈(たけ)も裄(ゆき=そでの長さ)も、去年のままでは短いから、少し早いけれど今のうちから直しているのですよ」
 しずは新吾の着物を仕立てる時は、裾(すそ)や袖口、場合によっては肩や腰に布を縫い込んで、できるだけ一反の織物を無駄にしないように心がけている。
 「そういえば去年の秋も冬物を全部直してもらったけ」
 育ち盛りの男の子のことだから、半年もすれば裾や袖口を伸ばすだけでは追いつかないほど体格が変わる。 衣更えのたびに何枚もの着物を全部ほどいてひとまわり大きく仕立て直すのは、いつも数日掛りの針仕事になる。
 「そうですよ、それでも…」
 母の視線に促されて自分の袖口を見れば、一冬越した着物からは手首がにょっきりと顕わになっている。 袴をつけているからこそ目立たないが、丈だって向こう脛が見えるほどになっているはずだ。
 「おれの背が伸びると母上が大変なんだ」
 生真面目な新吾の言葉に、しずが笑う。
 「大変なんてことはありませんよ。子どもの成長を喜ばない親などないのだから。 新吾にはもっともっと背が伸びてもらわないと。 まだお父様の肩にも届かないでしょう」
 新吾の照れくさそうなさまには気付かぬ振りで、細かい針運びで衿肩あきをいせ込みながら、しずが続けた。
 「摩利くんからお手紙が来ていましたよ。机の上に置いておきましたからね」



 ……、4月には従姉の家で、欧州でも指折りの名手がヴァイオリンの演奏会を開いてくれます。 従姉はベルリンに帰ることになっているので、これが最後の演奏会になります。 とても残念ですが、一流の演奏家の演奏を間近で見聞きできる最後の機会を楽しみにしています。……


 「4月ということは、もうこの“最後の演奏会”も終わっているだろうか」
 来年の今ごろは摩利も自分と一緒に持堂院の制服を着ていると、新吾は毛筋ほども疑わない。
 「うん、摩利が欧州にいるのもあと一年足らずだ。 日本に戻ったら欧州ほどにはヴァイオリンの勉強はできないから、熱もはいるだろうな」

 摩利は、アグネスの帰国の遅れにかこつけて、祖母から持ちかけられたベルリンへの留学とギュンター伯父の屋敷への寄宿の誘いの返事をうやむやにしていた。 それもこれも、仕事ばかりで息子の話を聞く時間を持たない父親のせいに違いないと、メーリンク夫人の非難は常に思音に向けられる。
 新吾が摩利の手紙を読んでいた頃、メーリンク夫人から思音あてに、「メーリンク家の孫にふさしい教育をするために、摩利をドイツに引き取る」という申し入れが届いていた。
 ―― 欧州の摩利の身の上には、新吾は知る由もない出来事が続いている。

(2001.10.14 up)



(16) ロンドンの紅茶 / (17) カウアー男爵父子

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