16, ロンドンの紅茶


 厳冬のベルリンでは一夜の宿が確保できなければ確実に凍死する。 3日たってもウルリーケの行方は杳(よう)として知れず、家族は身元不明死体の噂にも聞き耳を立てなければならなくなっている。
 メーリンク邸には、非公式とはいえ英国の外交官・スペンサー伯爵が逗留中だ。 しかも、英国とドイツはかなり緊迫した関係にある。 私的な事情であっても外交官・メーリンク子爵にとって孫娘の失踪は失点だ。 交渉相手に気取らせるわけには行かない。
 家族、使用人一同、遠来のお客人の前では心配を顔に出すことも許されず、なにごともないふりをして振る舞いながら、密かに心当たりを探し回っている。
 「ウルリーケは馬鹿な娘(こ)ではありませんよ。つむじ風だけれど考えなしの行動はしない娘です」
 期待はずれの情報が届くたびに、メーリンク子爵夫人が自分に言い聞かせるために、真っ青な顔できっぱりと孫娘の無事を断言する。
 ウルリーケの母は親族から使用人に到るまで全ての視線に、自分のしつけの悪さを責めるような棘を感じてしまう。 目の前が真っ暗で寝込みたいほど心配なのに、屋敷をあげての無言の非難にさらされているようで自分の家が針の莚(むしろ)だ。

 アグネスがウルリーケの失踪を知ったのは、さらに2日後だった。
 その夜、摩利は源氏物語を読み終えた。 昨年の夏から半年がかりの快挙だった。
 夕食後、アグネスの部屋で、早速、日本の古(いにしえ)の物語が話題になる。 光源氏が、出家の後にお隠れになったとされ題名だけで本文がない「雲隠」(くもがくれ)の段に、アグネスが興味を示した。 本当に名目だけなのか、それとも、その昔は光源氏の臨終の場面が描かれた物語が存在していたのかと、結論が出るはずもない世界にふたりの話が発展していった。
 夜もふけて摩利がそろそろ自室に引き上げようかという頃、メーリンク邸からの急ぎの使いが転がり込んできた。
 「ウルリーケ様がこちらにお邪魔していませんか? 」
 すがるような目で使いの男は、玄関を開けた執事に尋ねた。 が、面食らった執事の様子に答えを聞くまでもなく失望の表情を浮かべた。
 使いの男から一通りの話を聞きながら、アグネスは驚く暇なく結論を出す。
 ―― あの子の行き先はロンドンに決まっているわ。 けれど、インドの彼のことはおかあさまもおばあさまもご存知ないし…。どうしたものかしら。
 一呼吸二呼吸の思案の末、彼女は嘘も方便と即興の一人芝居を打つ。
 「そういえば、以前、ウルリーケは船旅をしてみたいと言っていましたわ」
 ベルリンの誰もが聞いたことのない話に、男が目を丸くする。
 「船で? 旅行ですか?」
 いかにもウルリーケの言葉を思い起こしているかのように、アグネスはゆっくりと言葉を続けた。
 「もしかしたら、海路でフランスに向かったかもしれません。 ベルリンから一番近い港と言えばハンブルクですわね? ハンブルク港の乗船名簿を調べて下さい。 どこか寄り道して来るかもしれないから、フランスに向かう船だけでなく全部の船の乗船名簿を。 特に英国に向かう船の名簿は念入りに」
 すでに心当たりを探し尽くしていたメーリンク家は、アグネスの言葉で直ちに乗船記録を克明に調べきった。 それでも失踪から調査当日までの1週間の乗船名簿に、ウルリーケの名前は見当たらなかった。
 ――まさかとは思うけれど、偽造の旅券(パスポート)でも手に入れて偽名を使っているのかしら?  無目的なことはしない娘(こ)だけれど、目的のためには平気で無茶をしてのけるし。
 つむじ風お嬢さんの行動力は、実の姉にも見当がつかない。




 長引いた出張を終えて、思音は英国の港町ドーヴァーで乗船待ちをしていた。 ここからフランスの港町カレーに渡り、カレーからパリ行きの列車に乗り継ぐ。
 ―― 摩利を自宅に呼び戻して3週間ぶりに顔を見られるのは明日の夜か、明後日の朝か。 いや、予想外の長居になってしまった今回はアグネスにもきちんとお礼を言いたいから、私の方から迎えに行こう。 そうなると、摩利に会えるのは、早くて明後日の午後になってしまうな。
 2月半ば、ドーヴァーの海は鈍色(にびいろ)だった。 潮を含んだ風が運ぶ雲は、にごった海を映し朽ち葉色(くちばいろ)にも見える。 荒れた海の音を聞いていると、この世の全てが永久に冬に閉じ込められるような気さえしてくる。
 ―― 英国の人たちは、風景を失う季節に心を養うために風景画を愛している。
 去年、妹が摩利への贈り物にと、田園の光景を描いたターナーの絵をことづけた時の会話を思い出した。
 ―― 立ち込める霧が全てを覆ってしまう日に比べれば、荒海とはいえ景色が見えているだけ今日はましかもしれない。 荒ぶる光景の中に希望を見出すには、それ相応の気力が必要だが。
 船が浮かぶ波止場はかなり先だが、海風に当たっているだけで思音の外套が湿り気を帯びてきた。 塩気を含んだ粘りのある水気(すいき)だ。
 船員や役人の騒ぐ声で、思音はカレーからの船の到着に気づいた。 船着場のほうから、声高な会話とともに彼らが近づいて来る。 船員たちに囲まれ、役人に腕をつかまれて詰所のほうに連れて行かれるのはウルリーケだった。 一つきりの旅行鞄が差し押さえを受け、係官の指示で船員が乱暴に運び去っていった。
 ウルリーケは無言で自分の荷物を見送り、潮風になぶられた金色の後れ毛を血の気のない頬に張り付かせたまま蒼い唇を噛みしめている。 その横顔が臨終間近のマレーネの面やつれにあまりに酷似していて、思音の背筋が寒くなった。
 「妻の姪です。私が全責任を持ちます」
 ウルリーケを追って詰所に現われた東洋人の話を聞くと、役人はロンドンに電話を入れ、思音が日本の駐英国大使の義弟であること、故マレーネ・フォン・メーリンクの夫であることの確認要請をした。 けれども半日たっても返答がない。
 思音はその日の帰国をあきらめた。 が、詰所で間違えでもあってはいけないと、ずっとウルリーケに付き添っていたのでパリはおろかロンドンの事務所にさえ連絡を入れられない。 その間、ウルリーケは最初こそどうしてもロンドンに行くのだと泣きながら抗議したものの、やがて、気力が尽きたのかぐったりとして黙りんでしまった。 そして、時折、「ベルリンには帰りたくない。実家には知らせないで」と、うわごとのように力なく繰り返している。
 「そうですね、まずはパリの私の家でゆっくり休みましょう。摩利も私も大歓迎ですよ。 春になったら、また、私は英国に出張しますから、その時には摩利と3人でロンドンへ行きましょう」
 何故それほどまでにロンドンへ行きたいのかと問わない思音に、ウルリーケは黙ってうなずいた。
 丸一日たって、ロンドンから思音の身分確認がとれたと知らせが入った。
 即座に思音はウルリーケの身元引き受け人となって、係官に金を掴ませて単純な入国書類不備で処理させた。 事の成り行きでは密入国者と扱われかねない状況だったが、孫娘が家出した挙げ句に外国で違法入国問題を起こしたら、メーリンク子爵の打撃の甚大さは火をみるより明らかだ。 役人たちと煩雑なやりとりを一日がかりで終わらせると、思音はウルリーケを連れてカレー行きの船に乗り込んだ。 予定より2日も遅れた帰国になった。
 カレーからパリに向かう列車に乗り込むと、ウルリーケは思音に寄り掛かって目を閉じている。 寝ている風でもない。銀ぎつねの分厚いコートをまとっても小刻みに震えが来ている。 やがて、歯の根があわなくなり額に冷や汗が浮き始めた。

 「これ以上、無理はさせられまい。ここからだとアミアンあたりで降りるか…」
 ピカルディー地方随一の都市アミアンならばしっかりした病院もあるだろうと見当をつけながら、思音は懐中時計とウルリーケの顔色を見比べた。
 列車の進みが遅く感じられ、嫌でもマレーネが病に臥せっていた時の記憶が呼び覚まされる。 日に日に細くなってゆく愛妻を看取った時の辛さが心に刻んだ傷は、10年以上経った今でも触れれば血が流れそうに生々しい。
 列車が古都アミアンのホームに入るや、思音は車窓から赤帽(ポーター)を呼ぶ。 ふたりの荷物を赤帽(ポーター)に預けるとウルリーケをかかえて列車を降りた。
 駅前で辻馬車を探す間にも、抱きかかえたウルリーケの全身から震えが伝わってくる。
 「マレーネに初めて会った時、そう、彼女がウンターデンリンデンの路上で急病に苦しんでいた時にも、こうして彼女をかかえて辻馬車に乗り込んだ。 あの時は、マレーネも大事には到らなかった」と自分を安心させる。
 辻馬車がフランス最大規模を誇る“アミアンの大聖堂”の前を走り抜けても、冷や汗を流すウルリーケに気を取られ、思音の目にその美しい姿は映らない。 幸い良い医師にめぐり合わせて、適切な診断と手厚い看護のおかげで肺炎の一歩手前で事なきを得た。
 翌日になると、思音からの連絡を受けたアグネスがパリから駆けつけた。 彼女はウルリーケの無事を確認するや、すぐにベルリンの祖父母と両親に長文の電報を打ち、ウルリーケの家出騒動はひとまず決着した。
 アグネスが泊り込みで看護に当たり病状は目に見えて回復したが、ウルリーケの表情はこわばったままで、誰とも言葉を交わそうとしない。ロンドンに行くと言い張りもしないが、ベルリンに帰るのは頑として拒んでいた。
 メーリンク子爵も、「体ばかりでなく、心にも静養が必要」と言う医師の言葉に負けて―― メーリンク子爵はもともとウルリーケには甘い祖父だ ――、当分、ウルリーケはアグネスの館に留まることになった。
 “ウルリーケがベルリンに帰れるようになるまで”という、はなはだ先読みのきかない条件でアグネスのパリの引き払いが延期となり、その流れで、4月のフレッシュのサロンコンサートも予定通り開催されることになった。


 次の角を曲がれば自宅に着くというところで、急にあたりが明るくなりくすんだ石畳にぼんやりと馬車の陰ができた。 思音が空を振り仰ぐと、太陽が晩冬の薄雲に貼り付けたような白い光輪を作っていた。
 ―― あと10日で春分、日本ではお彼岸の中日か。 パリでは春の訪れにまだ間があるとは言え、日も高くなるはずだ。
 ボーフォール公との打ち合わせが思いのほか長引いて、午前中に自宅に戻る予定がずれ込んだ。 事情を知っている御者はパリの細い裏道を迷路のようにたどって、馬に鞭を当てる。 かろうじて正午には鷹塔邸の前に着いた。 馬車の扉を開いて控えている御者の鼻は寒風にさらされて真っ赤だった。
 「急がせてすまなかったね。でも、おかげで助かりましたよ」
 思音がねぎらいの言葉をかけた。 その振り向きざまに再び薄鼠色の雲の向こうから届く陽光を見つけ、思音は、息をひそめて力を蓄えている春に出会った気分で外套のボタンをはずした。
 玄関ホールで執事に3人分の昼食の用意が整っていることを確かめ、摩利の部屋に向かう。 ホールでは微(かす)かだったヴァイオリンの音が、部屋に近づくにつれて、だんだんはっきりとした旋律となって聞こえ始めた。
 「そうね、今日はここまでにしましょう」
 アグネスが摩利にレッスンの終了を告げたところだった。 扉の開く音に二人が振り返る。
 「おかえりなさい、とうさま」
 「ただいま、私の摩利くん」
 譜面台に広げられたピアノ五重奏曲・鱒(ます)のヴァイオリンパート譜を覗き込んで、思音が微笑む。
 「出稽古(でげいこ)までしてもらってすみませんね、アグネス」
 「いえ、もとはといえば私の都合ですわ。それより…」
 思音が温厚な笑顔で深くうなずいてアグネスの話を預かる。
 「時分時(じぶんどき)になったことですし、まずは楽器を片づけてお昼にしませんか。 お時間を取らないように、簡単なものを用意させてあります。 私も、ゆっくりお話をお聞きしたい。
 摩利くん、片づけが終わったらアグネスを案内してあげてくださいね。 私は、たった今戻ったところなので書斎に寄ってから、食堂に行きますから」
 思音が食堂へ行くと、摩利とアグネスが今日のレッスンの振り返りをしていた。
 「アミアンの病院からパリに移ってちょうど一ヶ月になりますね。その後、ウルリーケの具合はいかがですか?」
 食事が始まると思音とアグネスの大人の会話になり、摩利は口を挟まず、ませガキのお行儀よさを発揮する。
 「おかげさまで、体のほうはかなり回復しているのですが、まだ、ほとんど誰とも口をききませんわ。 だから、あの娘(こ)がどうして急にこんな無茶なまねをしたのか、本当のところは未だに謎のままです」
 「時がくれば、話せるようになるでしょう」
 「だと良いのですけれど。まだ何か企んでいるのではないか、再び無茶をするのではないかと、母は気を揉んでいます」
 「もう出歩けるようになったのですか? 」
 「いえ、まだ、床(とこ)に臥せっていることが多いのですが、先月末くらいからだったかしら、少しは起き出して刺繍をはじめました。 ウルリーケが愛用している刺繍道具を、母がベルリンから持ってきたのが良かったみたいです。
 でも、それで一安心と言えるのか…。 そうですね、あの娘(こ)が刺繍を始めたことで安心したのは母のほうですわ、多分」
 「おかあさまも倒れないのが不思議なくらいご心痛でしたから、それを聞いて私もほっとしましたよ。 もちろん、ウルリーケも回復している証ですよ」
 「本当にあの時、ドーヴァーに思音がいて下さらなかったら、今ごろは…」

 アグネスが食後の紅茶を一口含んで、おやという顔をして物問いたげに思音の顔を見た。
 「お茶が何か?」
 「ええ、不思議なほどまろやかで、ほとんど香りが無いかと思えば、うっすらと甘いさわやかな味わいがあって。 初めてですわ、こんなお茶」
 アグネスの怪訝な表情が思音の楽しそうな笑顔を呼び戻した。
 「この前ロンドンで、『思音のためにパリの水質に合わせてブレンドしておいたよ』と言って、トーマス・ラプトンがくれた茶葉ですよ。 ラプトン一流の、いや、ナイト爵ばかりでなく准男爵の地位を授かって6年にもなりますから、いよいよサー・ラプトンですね、彼が得意とするアイルランド流の冗談(ジョーク)なのか本気なのか、そこは味わう側が自分の味覚と嗅覚を信じるしかありませんが…」
 「水質云々(うんぬん)は冗談としても、思音のためのブレンドなのですね。すてきですわ」
 物珍しくも楽しい話を聞いた笑顔でアグネスが答える横で、摩利が無言で紅茶茶碗に手を伸ばした。
 「販売地の水質に合わせたブレンド紅茶は、19世紀からのラプトン紅茶のいわばお家芸なんですよ。 それでサー・ラプトンは英国の紅茶市場を相当拡大しましたね」
 「まあ、お水に合わせて葉をブレンドした紅茶が本当にあるのですね」
 「確かにラプトンの商法は安価と派手な宣伝が売り物だと、眉をひそめる向きもあります。 それでも、価格だけでなくしっかり味へのこだわりもあって、その延長でロンドンの水とかスコットランドの水とか各地の水質に合わせたブレンド紅茶を売り出したわけです」
 ちょっと突き放したような口調の思音の説明が、ロンドン滞在中にトーマス・ラプトンと交わした冗談とも本気ともつかない愉快なやりとりを彷彿とさせる。
 「その“ご当地紅茶”が、今日のラプトン紅茶の成功の一要因だったのは間違いありません。 こんな話を聞くと、ますます、もっともらしく思えてくるでしょう? 」
 アグネスの声をたてんばかりの笑顔とは対照的に、摩利が神妙な表情で茶碗の中の色と香りを味わっている。 大人の話に口は差し挟まないが、ませガキの耳は片時も休みはしない。 そんな摩利の様子を目の端で眺めると、思音もアグネスも頬にそっとそれまでとは違う微笑を浮かべる。

 「ウルリーケは、フランもポンドも手持ちがほとんどなかったんですよ。 だから、思音がいて下さらなかったら、医者にもかかれず手遅れになっていたかも・・・。 いえ、私のところに来る旅費さえままならず、冗談ではなく行き倒れになってしまったかもしれません」
 「いざという時のために、どこの国でもちゃんと現金に換えられるような宝石や貴金属を持っていると言っていましたが。 しっかりしたお嬢さんですよ・・・・・・、随分、考えた末の行動だったようですね」
 思音のほめ言葉は、しかし、アグネスの困ったようなため息を誘った。
 「インドの彼のことを慕っているとはいっても、本当に身一つで飛び出してしまって」
 「何はともあれ、ウルリーケは無事だったのですから…」
 「いいえ、問題はこれからですわ。  来月、カウアー男爵がパリに来るそうです。 表向きはフレッシュ先生のサロンコンサートを聞きにという理由ですけれど、婚約破棄の話し合いの準備というのが本当のところですもの。 姉は離婚、妹は婚約破棄、両親がたまりませんわ」
 笑えない冗談に思音も黙り込む。
 「第一、あのつむじ風お嬢さんのことですから、元気になったら今度こそロンドンへ行くと言い出しかねません。 というか、実家に帰ったら祖父の監視が厳しくなるに決まっていますもの。 だから、あの娘はベルリンへは戻りたくないと言うのですわ」
 アグネスの口調も冗談ではなくなっている。

(2001.8.23 up)



(15) 雨の歌 /  葉桜

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