14, ヴィルヘルム


 摩利は時々、新吾に出せるはずもない手紙を書く。 伝えられない話も、心内(こころうち)の新吾はうなずきながら聞いてくれる。
 桜はもう終わったか? 新入生たちも大分、学校になれてきたか?  新吾は良い先輩をやっているだろうなあ。
 ―― 新吾、アグネスはかあさまでも、ねえさまでもなかったよ。 おれが一番近くにいて、おれに一番心を寄せてくれていると思っていたのだけれど……。 でも、三ヶ月前のあの夜、おれは間違えなく彼女のとなりにいたんだ。
 新吾、計算づくの色恋沙汰が押し寄せる社交界なんて、おまえには想像もできないだろうな。 だけど、おれはその中で暮らしているんだ。
 ……おれは、もう、アグネスの館に泊り込むことはないだろう。



 1月、S男爵との話をすませたアグネスがメーリンク子爵宛の報告書を綴る部屋で、摩利は黙って本を読み続けた。
 「摩利、おつきあいありがとう。ドイツへの手紙を書き終えたわ」
 2日目の晩、そう遅くもならないうちにアグネスが摩利に声をかけた。 摩利が顔を挙げると、机上には宛名まで記された分厚い封筒が乗っていた。
 「ね、ぼくには話してくれないの? 」
 アグネスがしたためたばかりの手紙の内容をかいつまんで説明した。


 去年、秋の終わりに乳母の娘は二人目の子どもを身ごもった。 しかし、「本妻に子どもができないのに妾腹の子どもが増えるなど許されない」という男爵の一言で、その子どもは闇に葬られた。
 男爵にしてみれば当然の処置で、いちいち嘆くに値しない出来事だった。 罪の意識を感じることもない。 むしろ、不用意に身ごもるほうが悪い。
 その時の処置が悪かったのか気落ちが激しかったのか、乳母の娘の回復は遅く半病人の生活が続いていた。 それでも、男爵は寝込む乳母の娘の部屋には、ほとんど顔を見せなかった。

 彼女が起き上がる気力もなく臥せったまま暮らして半月になろうかという頃、ポワティエの城に、突然、乳児を抱えた女が訪ねてきた。 S男爵の子どもだと、その女は言い張った。
 最初は言を左右していたS男爵だが、田舎町の出来事であれば目撃者には事欠かない。 口説く時には、「子供が出来たら責任をとる」と調子よく甘言を並べたのに、いざとなると、「商売女が堕ろしもしないのは不自然だ」と居直られれば、女の側も意地になる。
 歓心を買うために与えた紋章入りの指輪をつきつけられ、S男爵は言い逃れもできず、子どもを引き取り、口止め料を与えと、例によって、その場しのぎの弥縫(びほう)策を弄した。
 「仕方がない、おまえの子供ということにしておこう。どちらにしても、嫌な思いをするのは私なのだが」
 P侯爵やメーリンク子爵への言い訳を考える時、彼は自分の運の悪さを嘆いた。
 自分の子どもを無理やり堕胎させられて一ヶ月もたたずに、他の女に産ませた子供の世話を強いられる ―― 乳母の娘の気持ちなど、S男爵の慮外事項だ。
 彼女の心は、病的に均衡を失った。 母親が彼女から目を離した数十分の間に、乳児の首をしめてしまった。 新年早々の出来事だった。
 男爵は、出入りの医師に事故死の診断書を書かせて埋葬を済ませた。 これで、証拠はないとたかをくくっている。けれども、誰からともなく噂話が広がっている。


 摩利は怒りのあまり言葉もでなかった。
 「この事件のそもそもの原因は、私がポワティエに住んでいなかったせいだと責められてもねぇ…」
 世の人がどう考えようと、S男爵本人がそう思い込んでいるのだから、話し合いの余地はない。
 「それで、どうするの? 離婚するの? 」
 「おじいさまが決めるでしょう、それは。 ただ、そうね、フラジオレットのようにふわっと弾くばかりじゃなくて、はっきりと基本どおりの音を出さなければならない曲もあるわね」
 アグネスにとっても、この4年間の気苦労が全て無駄になった現実はさすがに重い。
 「さあ、もう、休みましょう」
 いつものように頬に接吻をして、摩利を送り出した。

 その夜、窓枠を揺さぶる物音で摩利は目を覚ました。 賊が侵入したのかと闇を凝視するうちに、堅牢な建物に叩きつける凄まじい風だと知る。
 「昨日、とうさまの乗った船は無事に英国に着いただろうか」
 荒海の光景が目に浮かび寝台の上で半身を起こすと、窓の外では館を取り巻く木々が烈風に大きくなぶられている。 厚い雲が飛びすさぶ空に光はなく、地表の雪のほうが明るい。 深夜の降雪は、アグネスの部屋の明かりを反射していた。

 そういえば、夕食の後、執事と家政婦が、 「まだ、今は奥様も気を張っていらっしゃるが、やるべきことを済ませて、ふっと気が抜けた時が心配だ」と話していた。 確かにそうだ。そして、今、ここでアグネスの側にいられるのはおれだけだ。 だったら、おれは彼女の側にいなくちゃいけない。
 窓から彼女の部屋に明かりがついているのを確かめると、人気のない廊下をたどって扉を小さく2回叩いた。
 返答がない。吹き付ける嵐にまぎれて聞こえないのか、聞こえないフリをしているのか。 取っ手を回す。施錠はされていない。
 ―― あれ? アグネスってこんなに髪が長かったかな?
 ガウンをまとって机に向かう彼女の背に、ゆるく波打った白っぽい金髪が流れている。 きちんとドレスを着込み髪を結い上げた数時間前のアグネスは、おっとりしながらも芯のしっかりした奥様だった。 うってかわって、目の前の彼女ははかなげな少女のようだ。
 おじいさまへの手紙は書き終えたと言っていたのに何を書いているのだろう。

 廊下からの風で暖炉の火が大きく揺れ、彼女が振り向いた。
 「どうしたの摩利? こんな時間に。もう1時よ」
 扉にしがみついたまま、摩利は、アグネスこそこんな時間にどうしたのと言えないで黙っている。
 「そんな寒い廊下に。風邪ひくわ。とにかくお入りなさい」
 会話がかき消されそうな風の音だった。
 「風が強くて。とうさまの船、英国に無事に着いたかなと思って」
 「大丈夫よ。もちろん、無事に着いているに決まっているわ。思音のことですもの」
 机上の手紙を手早く吸い取り紙(ブロッター)で押さえると、2つに裂いて暖炉に投げ入れた。 メーリンク家の箔押しのある便箋が、幻影じみた一瞬の炎とともに灰になる。
 「手紙? メーリンク家の便箋で…」
 「ええ、書き損じたの。あれこれ書き物した後だったからくたびれてしまって」

 アグネスが、暖炉の前に座り込む摩利に赤ワインのグラスを渡した。
 「体が温まってよく眠れるわ」
 「うん」
 「ボーフォール公に頂いたワインよ」
 自分の空になったグラスに継ぎ足す。
 「S男爵家のためには、できるだけのことをしてきたつもりだったけれど。 人の善意をとことん逆手に取る人って、世の中にはいるものなのね。 それが自分にとっては理の当然だと心底、思い込める人。価値観が違うから話しても仕方がないし」
 ―― 問わずがたりに彼女が愚痴をこぼしてくれる!
 アグネスへの同情やS男爵への怒り以上に密かな満足感が湧き上がり、摩利は笑みを浮かべそうになるのをこらえた。
 「書類を片付けてしまうわね」
 彼女は、インクのシミがついた指で書類の袋を鍵のついた文箱に納めると、寝室に姿を消した。

 その時、風に飛ばされた太い枝が窓際の外壁に叩きつけられて、重い音を響かせた。 摩利が窓に駆け寄りあたりを見回すが、闇の中で枝の行方はわからない。
 振り返ると、ロココ細工の机の上に薬包紙が一つ無造作に置かれている。
 ―― 薬? なんの?
 思わず机の正面に回りこんだ。 吸い取り紙のドイツ語の鏡文字が見るともなく目に入る。
 「愛するヴィルヘルム…」
 その名前に続くドイツ語の文章は恋文の断片だと、摩利にも見当がついた。
 深夜、人目を避けてアグネスが恋文を書いていた? ドイツにいる男の人に?  考えてみれば、あっても不思議ではない話だ。
 納得しながら、わけもなく腹立たしかった。 去年五月にメーリンク邸で会った人々の顔を思い浮かべ、ヴィルヘルムという名前を探すがそれらしき記憶はない。
 もちろん、親戚とは限らないだろうが…、どんな人だろう。 ―― フランスに嫁いだ女性から恋文を受け取って、彼(ヴィルヘルム)はどうしているのか…。

 摩利は、今、アグネスに一番必要とされている自信があえなく崩れ、憮然としながら暖炉の前で膝を抱えた。
 アグネスは寝室から戻ると、ワイングラスを手に摩利の横に座り込んだ。 とりあえず必要な仕事を終わらせた開放感のせいか、ワインのせいか口調が甘くなっている。
 「ペルチャッハ以来ね、こうして二人で夜中に話し込むなんて」
 「ワイン、もっともらえる? 」
 言ってしまってから、棘のある口調だなと摩利は内心で舌打ちした。
 「もう、飲んでしまったの? 」
 言葉の代わりに空のグラスを差し出した。
 「夜中に、あんなにたくさんの書類を書いていたの? 人に読まれたくないもの?」
 ヴィルヘルムって誰、どんな人と問い正したい。 聞いたところで、どうなるものでもないってわかってはいるけど。第一、聞けるわけないよ。 いささか自嘲的な気分になる。
 「ええ、ちょっと…」
 「ちょっと?」
 重ねての問いにアグネスは、驚いて摩利を見た。
 いつもなら、それとなく答えをはぐらかせば、私が聞かれたくないことだと察して、それ以上は人のことに立ち入らない子なのに。 あの勘のよさがにぶるとは思えないわ。 それほどS男爵の事件に腹を立てているのかしら。
 「何をそんなに気にしているの、摩利? 遺言を書き直したのよ」
 遺言、薬の包み、密かな恋人への最後の手紙 ――、これだけ重大なことなのに、おれには一言の相談もない。 

 「どうしたの、摩利。私、自殺なんかしないわよ」
 摩利がいきなりしがみついてきた。 といより、アグネスは摩利にしっかり抱きすくめられていた。 二人で別荘で過ごした夏の頃にくらべて、いつの間にか腕も肩も逞しくなっていた。 胸に顔をうずめて肩を震わせ、怒りとも悲しみともわからない感情をぶつけてくる摩利に、アグネスは困惑した。
 「約束するから、絶対、自殺なんてしないって。 摩利、お願いよ、困らせないでちょうだい。 私も、今、自分のことで精一杯なのだから」
 彼女が自分に言い聞かせるように、摩利の背をなでる。 落ち着いた言葉を裏切るように手のひらが汗ばんで心臓が早い。
 「ねえ、摩利、どうして、私が自殺するなんて思ったの? 」
 「遺言を書いて、机の上に薬があって…」
 そして、恋人への最後の手紙もという言葉を飲み込んだ。 アグネスがゆっくりと摩利の額に接吻した。
 「もしかして、摩利、遺書と勘違いしているの?  落ち着いて。私が書いていたのは遺言よ、ゆ・い・ご・ん、遺書じゃないわ」
 アグネスの言葉に一瞬、摩利の腕が緩んだ。
 「私がメーリンク家から持ってきている財産の相続先ははっきりさせておかないと仕方ないでしょう。 相続先を指定する理由の中に、今回の事件を書き加えたの。 それと、あの薬は単なる頭痛薬よ」
 胸から振動となって響く彼女の声を聞いているうちに、照れとワインの酔いで摩利は顔が火照ってきた。 ふと、夜着の下に豊かなやわらかい胸あるのに気付く。 つかの間の安堵の後、再びいまいましい現実を思い出す。 ヴィルヘルムって誰だろう? たちまち嫉妬にかられて、以前にも増して腕に力がこもった。

 翌朝、摩利はアグネスの寝台で目を覚ました。 すぐ横で彼女が長い髪をまとめもせず眠っている。 摩利がはじめて見る彼女の寝顔だった。
 アグネスは昨夜、何を考えていたのだろう。 いや、それは明らかだ。彼(ヴィルヘルム)のことに決まっている。

(2001.7.11 up)



(13)御前会議の夜 / (15)雨の歌

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