12, 砂の撒かれた道


 雪は二晩続いた。パリ中がすっぽり白銀の世界になった。郊外はパリ市内より雪が深い。 アグネスの館をとりまく常緑の防風林の枝が雪を乗せて重たげにたわみ、ときおりざらついた雪崩のような音を立てては寒風にさらされて凍った雪をふり落とす。
 3日目の夜明けにひとまず止んだが、たれこめた雲が引きもきらず流れ続けている。 また、いつ降り始めるともわからない空模様だ。 執事が朝のうちから、雑用を一手に引き受ける下男ばかりでなく、馬丁や園丁はじめ、館に出入りする男手を集めて雪かきをさせている。
 汗だくになって館のまわりの雪かきを終えた男たちをねぎらいに、アグネスが外套を羽織って裏庭に姿を見せた。 山積みにした雪を荷馬車で川に捨てに行く相談をしていた男たちが、彼女のご苦労さまの一言でぱっと光がともったような笑顔になる。 彼らに、ワインと夕餉(ゆうげ)の食卓の賑(にぎ)わいになるようなものを持ち帰らせるように家政婦に言いつけると、アグネスは自室で机に向かった。

 アグネスの机は、曾祖母の嫁入り道具だった手の込んだロココ細工の逸品だ。 華やかな見た目ながら、職人が丹精こめたつくりは堅牢で、しかも大層使い勝手が良い。 娘の頃からのお気に入りだったこの机を、パリに移る時に母から譲り受けてわざわざ運ばせた。

 羽ペンを手に、先週末にこの館のホールで、アグネスの友人知人だけのために名演奏を披露してくれたカール・フレッシュに礼状をしたため、自分の勉強の進み具合を報告する。 フレッシュは演奏家としての活動ばかりでなく、教育者としても実績を高く評価されていて、ヴァイオリン教則本の執筆の準備も進めている。 アグネスも、パリに移ってからは通信教育さながらに、フレッシュにレポートを送っては指導を受けてきた。
 「別に他人がどう思ってもよいけれど、私自身の問題としてね、ヴァイオリンを単なる暇つぶしとかお遊びにしたくはないのよ。 ちゃんと演奏しようと思ったら、個々の曲の演奏解釈だけでなく、作曲家自身のことも知らなければならないし、勉強しなければならないことがいくらでもあるわ」
 どうして毎日そんなに何時間も根をつめて練習するのか、そして、勉強するのかと摩利が尋ねた時、ゆったりした口調ながらきっぱりと答えた。 自分でそう決めているから、誰に強制されるわけでもないのに日々の練習を欠かさないわけだが、レポートも今まで書き溜めたものをまとめ、補筆、修正して、論文として提出するまでになった。
 ペンがS男爵家の紋章つきの便箋をなぞる音と、暖炉の炎が煙突に吹き上げる音だけが響く部屋に、階下からかすかにヴァイオリンの音(ね)が聞こえ始めた。
 「摩利ったら、この寒いのに」
 響きの良いホールは、摩利のお気に入りの練習場所になっている。 しかし、今日は来客の予定もないのでホールは暖房を入れていない。 天井が高いぶん冷え込んでいるはず。風邪でもひいたら大変だわ、止めに行こうかしら、と思っているところで音が止んだ。 ほっとして書きかけた手紙に意識を戻し、インク壷にペン先を浸す。

 封筒の表書きをオランダ・アムステルダム音楽院の住所にして封緘すると、扉を叩く音がした。
 「アグネス」
 摩利が、形ばかりのノックで返事も待たずに扉を開ける。 彼女も身支度はとなりの寝室ですませるから特に注意をうながすでもなく、いつの間にか二人の間ではこれが当たり前になっている。
 「風邪でもひいたら大変よ。こんな寒い日に、わざわざホールで練習して…」
 振り向きざまに、心配が口を突いて出る。
 「うん、指がかじかんで練習にならなかった」
 あ、やっぱりおこられたという顔で、でも、なぜかしら嬉しそうに摩利が走りよって彼女の首にしがみついた。
 「きゃ! 冷たい! 手も、腕も」
 冷え切った指で首筋をさわられてアグネスが悲鳴を上げた。
 「あ、ごめん」
 摩利があわてて離れる。
 アグネスは、結婚後はもちろんだが、およそベルリンの実家にいた頃も、悲鳴など無縁の生活だった。 それが、ここ半年、摩利と一緒に暮らすうちに、育ち盛りの少年のエネルギーの直撃を受けて小さな悲鳴が珍しくなくなった。
 もちろん摩利に悪気はない。 むしろ、自分ののびやかな振る舞いが、彼女を驚かせることに戸惑っている。 どうも、新吾を相手にする時とは勝手が違いすぎる。
 だから、アグネスの悲鳴の後は、いつもおたがいに困り顔を見合わせ、結局は笑ってしまう。

 彼女と一緒に暮らすようになって、摩利が気付いたことがもう一つある。 アグネスの私室は女性らしい華やかな家具調度が並ぶ。 しかし、キャビネットや机の中身は、父・鷹塔伯爵の執務室と同じような書類や資料が少なくないことだ。
 館や使用人たちの管理、社交界の付き合い、パリやベルリンの親戚づきあいと、S男爵家の女主人としてなすべき仕事はいくらでもある。 その合間を縫って、日課にしているヴァイオリンの稽古から、論文のまとめ作業までこなすのだから、物腰はおっとりしていても、アグネスは退屈を口にしたことはない。
 摩利は、身綺麗に穏やかな微笑みをたたえながら、てきぱきと仕事を片付ける彼女を見ながら、マレーネかあさまが生きていたら、こんな日々を送っていたのだろうかと思いをめぐらせる。

 「手紙を書いているの?」
 「ええ、フレッシュ先生にこの前のサロンコンサートのお礼をね。 あと、招待状が何通もきているのだけれど、そのお返事はこれから。 どの招待状も、お目当ては摩利よ。思音の出張の日程を、皆さん良くご存知ねぇ」
 銀のトレーに、ものものしく貴族の紋章を箔押しした封筒が何通も乗っている。 アグネスが差出人の名前を見せながら、ちょっと苦笑がちに招待に応じるかどうか目で尋ねる。
 「行った方が良ければ、どこでも行きますよ」
 彼女とじゃれあう時とは打って変わって、ませた口調になった。 この口調が摩利の地だと思う人は多い。 当初はアグネスもそう思っていた。 物心つく前から他人と暮らしていたのだからと、摩利自身もそう考えている節がある。
 さっきまでの甘えたやんちゃ坊主とのあまりの落差に、アグネスは口元に小さな笑窪を浮かべる。
 「摩利が顔を出すと、お嬢さんたちが大喜びするけれど、気が進まないものは無理することもないわ」
 午餐会でも園遊会でも、その場に臨んではませガキの本領発揮で会話もダンスもそつなくこなす。 大人ばかりでなく、同年代の子供たちにも気を使って愛想がいい。 華やいだ場でエスプリを効かせたやりとりを、彼なりに楽しんでいるのはアグネスも感じている。
 「気が進まないなんてことはありませんよ。せっかくお歴々がご招待してくださるのに」
 暖炉で身体を温めると再び彼女の首にしがみついて頬を寄せた。 そうして甘ったれながら、口はあくまでませガキの配慮を示す。
 「そうねえ、どうしてもお受けしたほうがよいのは…」
 ふっくらした摩利の頬を、すんなりした人差し指で突っつきながら一つ二つ封筒を取り上げる。
 父・鷹塔伯爵の体面や、どこでつながっているかわからない親戚関係のことを考えて、摩利は社交を義務と考えるのよね。 苦痛ではないと言っても、摩利が気乗りしない理由の根っこもわかっているし…。難しいところだわ。 摩利のお母さま、マレーネならどうするかしら?


 昨年10月、留守中の思音にかわって、アグネスが後見役となって摩利と一緒に出席した舞踏会があった。
 着飾った少女たちが目ざとく摩利を見つけ、われ先にとダンスを申し込んだ。 きらびやかな夜会服を競う人波がさざめく舞踏の場でも、摩利の華やかさは群を抜いていた。 一緒に踊れば、少女たちは自分も脚光を浴びたような気分になる。
 しかも、単なる美少年ではなく資産家の貴族の若様とくれば、一度のダンスから良縁の始まりを期待する親たちの熱い視線も浴びる。 引きもきらない申し込みを、終始笑顔を絶やさずに摩利は引き受ける。 (こうして、子供時代に、散々、踊りこんだので、摩利はあらゆるステップをしっかり身につけた。 高校3年間はさほど踊る機会もなかったが、持堂院を卒業して再渡欧した際にも、ダンスに関しては全く不自由を感じずにすんだほどだ)
 「それでも、ものには限度というものがあるわ」
 あまりに休む暇がないのを見かねて、アグネスがそっと露台(バルコニー)に摩利を連れ出した。 ベンチに座って、額にうっすら汗を浮かべる摩利にジュースを飲ませていると、背後の生垣の向こうから、腹立たしげなだみ声が聞こえてきた。

 「資産家と言ったって、一代の成り上がり商人だろうが。 わしは、自分の娘を成り上がり商人の息子と踊らせる奴の気が知れん」
 アグネスと摩利は後日、知ったことだが、声の主はボーフォール公のビジネスパートナーになりたくて思音の追い落としを図った貿易商崩れの男だった。
 ボーフォール公の贋物に対する評価は、辛らつこの上ない。
 「私にけんもほろろにあしらわれたのさ。 全く、当たるに事欠いて子供に八つ当たりか。 だいたい、尋ねもしない相手にまでフランス貴族だと自慢してまわるような輩(やから)だが、その実は入り婿で、当人の血筋なんぞ目も当てられん。 もっとも、それ以前に商才のなさは貿易商にしては、致命的だ」

 舞踏会の夜、植え込みの陰で話に付き合わされた不運な相客は、仕方なく当り障りないように言葉を挟さんでいた。
 「成り上がり商人は言いすぎでしょう。 まがりなりにも、伯爵家だとか。まあ、あの少年は混血ですが」
 ふんと鼻先でのせせら笑いともに話が続く。
 「混血? それは人間に使う言葉だ。未開の蛮族の血を引く奴なんぞには、雑種で充分だ」
 「母親は、神聖ローマ帝国にまで遡(さかのぼ)れる古い血筋の子爵家の出ですよね」
 「ドイツの子爵?  皇帝が自国で戴冠式も出来ず、わがベルサイユ宮殿で戴冠したような後進国の貴族がどれだけのものなんだ?」
 確かに、先々代のドイツ皇帝ウィルヘルム1世の戴冠式はヴェルサイユ宮殿の鏡の間で行われた。 しかし、それがここで何のかかわりがあるのか?  他人が聞けば噴飯物の的外れな雑言に、自分ひとりが酔ってまくし立てる。
 「いいか? わしがあの小生意気なガキをつまみ出さないのは、わずかばかりでもフランスの大貴族P侯爵家の血を引いているからだ。 さもなければ、あのドイツ女と一緒にすぐにでもつまみ出すぞ!」
 他人の舞踏会の招待客を「つまみ出す」もないだろう。 相槌を打つのもばからしい。 話し相手は適当な理由をつけると、だみ声の男をその場に残して去っていった。

 一部始終を聞いた摩利はジュースを飲み終えると、にっこり微笑んでアグネスのほうを振り向く。
 「気にすることはありませんよ。あんな手合いはどこにでもいるものです」
 アグネスも、そうね、気にすることないわと微笑むが、身構えた時ほど摩利が大人びた口調になるのを知っている。
 ただ、その時、摩利が身構えたのは、だみ声の男の敵意に対してではなく、おそらく一生涯、拭い去れない自分の記憶に対してだった。
 幼い頃、そこにいるだけでいきなり石を投げられ、いわれない悪口雑言を浴びせられ、泣きながら父のところに逃げ帰った日々。 唯一の保護者だった父が日本を離れてからは、同い年の新吾が全身を盾にして必死にかばい続けた。
 あの頃を思えば、こんな見当はずれな陰口なんて痛くもかゆくもない。
 そう思ってみるが、癒されがたい古傷の疼(うず)きが、目の前の華やかな宴の席に潜む下心と本音をあぶり出した。
 ドイツ女――、笑顔の下で、アグネスを異邦人あつかいする人々がいる。 彼らにとっては、東洋人の血を引くおれなど、夷狄(いてき)あつかいだろう。 欧州ではどこに行っても、そんな視線が少なからず肌に刺さる。 一部に厳然と存在する冷ややかな目を承知の上で、おれにダンスを申し込む令嬢や親たちの打算もあからさまだ。

 そういえば、ボーフォール公に教えられたな。
 「摩利、舞踏会でご婦人方と踊る時、どんなことに注意をはらっている?  踊りの上手下手なんて2の次だ。まあ、教養という部分で採点されるがね。
 それより、もっと重要なことがある。
 ダンスと言うのは直接、他人の身体に触れる機会だ。 そう、骨格、肉付き、体臭、口臭、肌の色艶、どれも相手の健康状態を知る重要な情報だ。 君が一族に迎えるご婦人は健康でなければ、話にならない。 貴族にとって、結婚するからには両家の血を引く子供が出来ないのは、いわば政治問題だ。 ―― なに、後ろめたく感じる必要はない。 相手だって同じように君を観察しているのだから」
 どうしたって、ませガキを演じ通すしかない世界だ。 まあ、虚構の世界と割り切れば、それなりに楽しむ術もあるさ。
 摩利は、露台のベンチで空になったジュースのグラスを手に、欧州で身構えずに話ができるのは、思音とアグネスだけだと思った。
 「おや、私は加えてもらえないのかね?」
 突如、不服そうなボーフォール公の顔が浮かんだ。



 貧乏ゆすり―― 。 アグネスの館に向かう馬車の中で、S男爵の右膝が小刻みに上下している。
 彼が5歳だか6歳だかの頃に、こんな品のない癖があることを知った祖父は、乗馬用のムチで情け容赦なく膝を打った。 何ヶ月かかったか、何年かかったか良く覚えていないが、肌が裂け血がにじむ躾(しつけ)の成果で、普段は忘れていられるようになった。
 それでも、極端に緊張したり、苛立(いらだ)つと、来年には30歳になろうという今になっても、相変わらず膝が揺れる。

 全く、ついていない。私の人生は不運の連続だ。 父や祖父だって、同じようなことをしていたじゃないか。 どうして、私だけがやることなすこと、四面楚歌で責められなければならないんだ?

 馬車が、広い通りを折れて館に通じる小道に入った。 館まで、見渡す限り路上の雪はきれいに片付けられ、滑り止めの砂まで撒かれていた。 正午を回った時間帯とはいえ、厚い雲の下で人通りの少ない道は、どこも、まだ雪深い。 吹き溜まりに出くわした時のために敷き藁を用意した御者は、内心で感嘆の声をあげた。
 「お館の主(あるじ)の人徳だ」
 執事がいちいち見回らなくても、館の奥様に恥ずかしい思いをさせまいとする使用人たちの心意気が見て取れる。
 ポワティエの城の雪かきと言えば、通用門のまわりを下男が申し訳に人ひとりの歩く幅を作るくらいだ。 園丁や馬丁は持ち場以外の重労働は体よく断るか、日当の支払いを求めてくる。
 田舎の城だけに広さはパリの館の数倍になるので、大雪の後は近所の農夫たちを日雇いで集めなければならない。 その農夫たちも、歴代の城主への恩義に義理を立ててしぶしぶ集まるが、日当の少なさをこぼしながら作業している。

 座席の背にもたれて腕組みをしたまま目を閉じているS男爵は、砂の撒かれた道に気づかない。 そして、館が近づくに連れて苛立ちは募る一方だった。
 だいたいドイツ女との結婚は、遠縁の親戚だか商売上の都合だか知らないが、父やP侯爵家の都合で決めたことじゃないか。
 別居だってあの女が言い出したことだ。 体裁の良いおためごかしを並べていたが、どうせ田舎は退屈だからパリに住みたかったのだろう。 この館ためにどれだけ余計な金がかかっていることか!
 第一、あのドイツ女がポワティエに住んでいれば今回の事件も起こらなかった。 そうだ、あの女がポワティエにいなかったのが、そもそもの原因だ。
 私は何一つ決定権がなかったんだ。それなのに、全て私が悪いだと?

 右膝を揺らしながら、自己弁護の堂どうめぐりを繰り返すと、いとも簡単に自分は被害者だと話のすり替えが成り立った。
 現実には、逃げ道のない問題を抱えたわが身に引き換え、アグネスはいまいましいほど品行方正だ。 彼女への疎ましい思いが憎悪に発展し、あっという間に、今、馬車がくぐったこの館の門構えにさえ、つばを吐きかけたいくらいの悪意が全身にみなぎってきた。
 離婚? 上等じゃないか。もし、あの女が離婚と言うなら、今日を限りでこの館の維持費は打ち切ってやる。
 馬車の扉が開いて車寄に降り立った時、S男爵は己を鼓舞するように自分に誓った。

(2001.6.14 up)



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