11, パリの雪雲 |
1908年(明治41年)になって最初に届いた新吾の手紙には、毛筆で新しい年への希望と摩利との再開を願う言葉が書かれていた。
印南のお祖父様の仕込みか、和紙に綴られた行書がずいぶん大人びてきた。 |
行儀作法には震え上がるほど厳しかったけれど、今にして思うとおおらかで腹の据わった人だったよな。
天保年間の生まれで幕府ゆかりの医者の家系でありながら、見るからに混血児のおれを新吾と同様にかわいがってくれたんだから。
手習いが終わってからいろんな話を聞かせてくれたっけ。 |
新吾と摩利の手習いの日、お祖父様は床の間に、とっかえひっかえ印南家秘蔵の年代ものの軸を掛けた。
禅僧の墨蹟、鎌倉時代の写経、室町時代の歌集の一部を表装したもの、安土桃山時代の画賛、どれも新吾と摩利に色々な書体を見せるためだった。 |
手紙だけでは気持ちが届かないとでも言うのか、翌週には新吾から荷物が送られてきた。
これまで受け取った中で一番大きな木箱だった。 |
「着心地の良いものではないから、部屋着にするわけにもいかないしなあ」 |
その頃、ウルリーケもベルリンの自室に旅行鞄の用意をしていた。
なるべく目立たないように寝台の幕の陰においたのだが、小間使いに気付かれてしまった。 |
雲が重苦しげにたれこめた午後、摩利をアグネスの館に送った思音はパッシー街にあるボーフォール公のオフィスに向かった。
摩利は、アグネスと一緒に思音を見送りながら、カレー海峡(ドーヴァー海峡)が荒れなければいいけれどと、今にもみぞれが落ちそうな空を眺める。 |
思音がパリ市内に戻った頃、街はすっかり夜の景色になっていた。
高級アパルトマンの窓から漏れるこうこうとした灯りが、かえって往来の人に底冷えのわびしさを募らせる。 |
「年をとっても髪の毛の色だけは変わらないのも、不思議なものだが」 |
ボーフォール公は、それまでP侯爵に遠慮して控えていた葉巻に火をつけた。 |
「実際、アグネスと摩利はウマが合うようですな」 |
がらっと音を立てて、暖炉の中の薪(たきぎ)が崩れ、燃えさしの小片がいくつか転がり出た。
ボーフォール公がマントルピースの横にかけてある真鍮(しんちゅう)の火かき棒を取って燃えさしを火中に戻し、太い薪を一枝くべた。 |
思音がほうっという顔でボーフォール公の顔を見つめた。公がいぶかしげな眼差しを返す。 (2001.5.19 up)
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