通奏低音
(4) 悲劇と喜劇と活劇
摩利がメーリンク邸の寝室で休むのは随分久しぶりだ。それでも居心地よくくつろげるのは ウルリーケの日頃からの心配りが行き届いているからだろう。そう言えば先刻覗いてみた マレーネ姫の部屋もマレーネがいつ戻っても不思議がないくらいに卓上の盛り花までが しゃっきりしていた。摩利も思音もメーリンク邸に戻ると近況報告や追憶などその時どきの 想いを抱えてこの部屋に必ず足を運ぶ。それを知っているのかどうか、ウルリーケは 今でもマレーネが思音とともに独逸を離れた時のままにしている。
「もう二日も前になるのか」
床に就いたものの目が冴えるままに摩利はこの数日の出来事を思い出していた。感傷ではない。 これからのビジネスの算段のためだ。
ここ数年、年を追うごとに伯林(ベルリン)は不穏になっている。摩利が訪れるたびに、 あきれるくらい加速的に不況と食糧不足が深刻になり、軍靴の音が世情の緊迫を物語る。
とにかく現状を踏まえて会社の発展の方策を考えるのが社主の責任だ。
―― おそらく今とうさまも同じ思いで次の手だてや新しい商機を考えているにちがいない。
「しかし、」
ふと巴里から伯林へ来る列車の中で思音がいつになく顔色が悪いように見えたことを思い出す。
連日の激務の疲労もあるだろう。或いは綿密な打ち合わせの上の大芝居とは言いながら、 50年近くに渡ってビジネスパートナーであったボーフォール公と怒鳴り合い、 罵り合ってそのままに別れたせいだろうか。
ボーフォール邸での秘密会議から2ヶ月、あの日の4人以外には重役のひとりにも告げず極秘裏に 計画が進められた。
最後の大芝居は国際情勢を反映して、ボーフォール公と鷹塔伯の喧嘩別れの場だ。
国内資産の海外流出には各国政府の担当当局が目を光らせている。 だからと言ってそのまま残置すれば、敵国民の国内資産は凍結や差押え、 時には没収となるのが定石だ。
あらかじめ帳簿操作で作っておいた鷹塔伯の借金のかたに巴里の鷹塔邸をボーフォール公が 差し押さえるという念の入ったオチまで付けた脚本が出来ていた。
その日、ボーフォール公のために思音はハヴァナから届いたばかりの葉巻を用意して 執務室で待っていた。
「お互いに、今後の最大の使命は長生きをすることですな。」
ふっふと笑うように極上の煙を吐いてボーフォール公が言うと、
「さよう、この国際的な大芝居は悲劇的な幕開けですが最後は喜劇ですからね。 必ず見届けますよ。」
思音が紫煙を追って目を細めながら応える。
「モリエール以来の伝統にかけて、芸術的喜劇は仏蘭西の誇りです。 何がなんでも成功させますとも。」
別れの握手を交わすつもりで歩み寄った2人だが、気が付くと互いの肩を抱き合っていた。
「敵を欺くためには、先ず味方からでしたな。」
「そうです。では、活劇で幕を開けますかな。」
次の瞬間、通常の話し声なら到底漏れるはずのない分厚い扉の内側から、 激しく机にこぶしを打ちつける音と仏蘭西語と日本語と独逸語が入りまじった罵詈雑言の応酬が 廊下中に響き渡った。
突然の騒ぎに慌てた重役たちに呼ばれて摩利とラウールが駆け付ける。
摩利もラウールも形どおり事情説明を聞くが、4人だけが心得ている筋書きにしたがって 周囲の驚愕を尻目に競って火に油を注いだ。
その日のうちに思音と摩利は巴里を発った。社交界に前後10年はないだろうと 言われたセンセーションを残して。