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 2001年11月27日 その2


愛しき言つくしてよ
秋田文庫 (全1巻)
 2001年11月に、秋田文庫『愛しき言つくしてよ』(うつくしきことつくしてよ)が刊行しましたが、この作品について何かコメントをいただけますか?

 いえ、あれはタイトルで全てを語っていますから。

 では、なにかこの作品にまつわるエピソードなど…。

 『愛しき言つくしてよ』も時間がなくて、101ページを描き上げるのが精一杯でした。 もっとページ数が欲しいと言えば、120ページでも150ページでももらえる状況だったのですけれどね。
 それでも欲張って101ページしかないのに、あれもこれもきゅうきゅうにコマとコマの間を詰めて、若さで突っ走りました。
 幸いこの作品は最初の単行本収録時に加筆できたので、まだ良かったわ。

 秋田文庫で初めてこの作品を読んだ方から、 「双子、日舞、バレエ、そして、許されない恋を3つも4つからめあって、さらに姻戚親戚の愛憎と、とにかくなんでもテンコ盛りなのに、『わかった、わかった、もう、いいよ!』と言わせずに読み切らせるって、木原先生の技ってすごいですね」 という感想を頂きました。

 うーん…。どうもありがとうございます。でも、本人はまるで自覚していないんですよ。
 欲張りだからなんでもかんでも入れてしまいたい、だけど、突き詰めないというのが幸いしているのかも。
 つまり、「双子とは〜」「日舞とは〜」「バレエとは〜」と、突き進むことはしないのよ。 詰め込んだあれこれを、結構、いい加減にさばいてしまうところがあって。


 はい、『愛しき言つくしてよ』は、物語の本筋が小道具に埋もれることなくはっきりしていて、絢爛豪華な小道具以上に鮮やかな存在です。

 そう、基本は悲恋のお話。双子も日舞もバレエもその他諸々も、みんなそのお話に乗っかっているだけなのね。
 けれど、トッピングだと物足りないから、そう、表面にふりかけただけの飾りではないのよ。 ソフトクリームの上のスプレーみたいにクリームと一緒に流れたりしないように、マジパンでちゃんと土台のスポンジケーキにくっつけてあります。 だから、ずり落ちない…んだと思うけど……、どうでしょうか?


 それは、「いい加減(いーかげん)」ではなくて「良い加減(よいかげん)」ですね。

 あら、そうとも言えるのね。すてき

表紙拡大図(部分)
 今回は、『無言歌』(むごんか)の扉絵をアレンジした表紙で、柔らかい色調がとてもきれいです。
 先生は、以前、この絵について、「できれば睫毛(まつげ)を減らしたい」とおっしゃっていましたが。


 そう、あの頃はなんだか目元が淋しい気がして睫毛をバサバサ描いていたのね。今見ると痛そうよね〜。 でも、睫毛がないと淋しいという人もいるし、いいわ。(笑)

 本書がDOZI作品へのファーストコンタクトになった男性の方ですが、『無言歌』が一番印象に残ったとおっしゃっていました。

 それは嬉しいです。
 前にもどこかに書いたと思うけれど、冒険小説の大家であるアリステア・マクリーン、彼には名作がたくさんありますが、中でも『女王陛下のユリシーズ号』『最後の国境線』が私には双璧です。
 そして、『最後の国境線』のほうですが、主役のひとりのホワース少佐が、それはもうもうかっこよくて!!
 で、この小説の背景であるハンガリー動乱の歴史にのめりこんだ時期に描いたのが、『無言歌』だったのね。 けれども、まだ当時はハンガリーには行ったことなかったし、歴史的なことも重すぎて描けないから、思い入れだけたっぷり込めてあんなふうにしてみました。
 それから何年か後にハンガリーに行ったのですが、国境の草原で撮った写真は、本当に嬉しそうに顔が崩れています。

 白泉社文庫『摩利と新吾7』の解説で小室美貴さんが、「ハンガリー国境でのセンセー、口の端があがったままでしたねー。なにを言っても聞いてもうわの空…。」と書いていらっしゃいますが。

 そうなんです、うわの空でした。また行きたいなあ。

 同時収録作品の『アモール』ですが、プリンセスの予告コーナーに出ている絵柄と本編のキャラクターたちの顔が全然違います。 予告によると、「家出した少年をむかえにいった」はずが、フタを開けたら、家出したのは25歳の青年で。
 あの、もしかしたら、お時間がなくて、まだ構想が固まらないうちにタイトルだけ決めて予告カットをお出しになったとか……?

プリンセス1976年4月号予告カットより
とても豪華な予告、3大よみきりの他2作は
山岸凉子先生の『シュリンクス・パーン』と、
大島弓子先生の『タンポポコーヒー』(仮題)

 ……、お恥ずかしゅうございます。 そう、あの頃は時間がなくてねー。 ただ、ロマンチックな話にしようとは思っていました。

 『アモール』と言うタイトルも、先生の作品の中では珍しくストレート過ぎる感じがあって…。

 カンツォーネでも聴いていたのよ、多分。(笑)

 この作品では、モンシロ蝶姫、ちょうちょのリン、くまんばちのサーロなど、キャラクターの名前に枕詞?がついています。 ユーフェミアは花の名前だとわかるのですが、“ちょうちょ”や“くまんばち”は何か意味があるのでしょうか?

 いえ、特に深い意味はありません。 ひらひら、ぶんぶん、お花畑に集まってきたくらいのノリです。 ある日ひらひらと飛んできた少女でちょうちょ、黒髪の男の子のつんつんしたヘアスタイルでくまんばち、それくらいのイメージです。
 うん、こーゆーとこも、相当、いーかげんですねぇ、私。



 大きなテーマになりますが、夢の碑シリーズ立ち上げた経緯をお話しいただけますか?

 「時代物」をやりたいなと思いました。

 「歴史物」ではなくて「時代物」ですか?

 私の区別するところでは、ある一つの時代を舞台にしているのが「時代物」、ある程度、歴史の流れを踏まえてそれを背景にお話を進めるのが「歴史物」です。 つまり、『大江山花伝』は時代物で、『風恋記』は歴史物です。

 シリーズ立ち上げ当初から、短編に限らず、かといって長編にも限らないと予定していらっしゃったのですね。

 ええ、適当に歴史物あり、御伽噺(おとぎばなし)ありで、要所ごとに鬼の話をからめたいなと思ってみたり。 そんなにたいそうなモノを始めるつもりでもなくて。
 それで、プチフラワーに連載するにあたって、いちおう総タイトルを決めましょうとなった時に、「夢か現(うつつ)かわからないお話のシリーズになるかしら……」ということで、『夢の碑』(ゆめのいしぶみ)と付けました。

 シリーズの皮切りは、『桜の森の桜の闇』(さくらのもりのさくらのやみ)ですが、拙サイトの資料ページでは次のようにご紹介しています。

 鎌倉時代末の戦乱の世、爛漫の桜の中に夜の髪、雪の肌を持つ鬼。 シリーズ冒頭を飾る華やかで凄絶な物語。 『青頭巾』『鵺』の伏線になっています。


 この物語を思いついたのは発表する10年くらい前でした。
 1984年2月号のLALAで『摩利と新吾』の長期連載が終わって、5月号のプチフラワーにシリーズ第一作として掲載した作品ですが、内容が結構ハードなのに皆さんからの感触が大変よかったのね。 それで、「これだけ手ごたえがあれば"時代物"でも行ける!」と思って、6月号から『とりかえばや異聞』の連載を始めました


 シリーズの全体構成を見ると、先に伺ったとおり「時代物」あり「歴史物」ありで、それぞれの物語の時代設定もばらばらで、全体として時系列で話が進むわけでもありませんね。

 ええ、気軽に枝から枝へ飛び移る感じで、“must be”(かくあらねばならない)ではなくて、時代も場所も、その時に私が描きたいスポットに焦点を当てて描き進めました。
 第二話の『とりかえばや異聞』は、戦国時代のポニーテールが描きたくてあの時代設定にしたのね。 その次は、平安時代の衣裳が描きたかったのだけど、でも、十二単のずるずるは嫌だったから平家の時代にして『青頭巾』(あおずきん)という具合に。
 そうね、何でもありの室町時代が『渕となりぬ』でしょう、それから、鎌倉時代の『風恋記』は…えっと……。


 『風恋記』は“降りてきたもの”があって、「作者を道連れに作品が暴走した」と、小学館文庫『風恋記・中編』の後書に先生がお書きになっていますが。

 そうそう、6回の完結予定だったのに1000ページの長編になってしまったのよね。 うん、時にはそういうこともあります。

 以前、先生から、「『夢の碑』シリーズは娯楽大作にしようと思えば出来たけれど、敢えて娯楽大作にはしなかった」とお伺いしたことがあります。
 『夢の碑』シリーズを娯楽大作にしなかった理由は、どこにあるのでしょうか?


 掲載していた雑誌の性格も一つの理由になるのですが…。
 例えば、『摩利と新吾』、これは歴史物と言わないまでも、明治の終わり頃から、大正、昭和と大きな時代の流れに根ざした大河ロマンですが、でも娯楽大作よね。
 LALAという雑誌に掲載していましたが、連載中に私が、“LALAの読者が描き手に求めるもの”を意識しながら描いたのかといえば、今になって考えてみると、そうでもないのよ。
 とにかく、自分が楽しくて楽しくてやっていたことに、読者の皆さんも火の玉にみたいに一緒になって喜んでくれていた……。 そんな感じがします。 それが結果的に読者のノリを汲んだように映ったのかもしれません。

 それに対して、プチフラワーは、20歳以上の読者が多くて、しかも、単に読者の年齢層が高いばかりでなく、大人っぽいマニアックな作品で売っている雑誌です。
 そんな雑誌を舞台にして、 『夢の碑』を始めた時、「今度は私が読みたかったけれど、今までになかったもの」を描いてみようと思いました。
 その読みたかったものというのが、「幻想小説にもなるけれど、それを敢えて漫画作品でやってみたもの」、言うなれば幻想ロマンです。
 そんなことを漠然と考えながらやってみたら、第一作目から「鎮魂歌(レクイエム)」になったのね。 これは『桜の森の桜の闇』発表直後に、ごく親しい友人に「レクイエムね」と指摘されて気付いたのですが。 それで、『夢の碑』はシリーズ全編を通して流れるテーマは「レクイエム」なんだと…。
 『夢の碑』はレクイエム、そして、鎮魂歌(レクイエム)は娯楽大作から遠いところにあるもので ―― これが娯楽大作にならなかった理由かな。

PFコミック『夢の碑 2』P39、小学館漫画文庫『とりかえばや異聞』P171
 音楽作品でも壮大なレクイエムは、さまざまな旋律が短調、長調と調性を変えつつ現われ消えて、一つの大きな曲を構成しているような感じでしょうか?

 うーん、連載が終わって、更に数年の時間が過ぎた今の時点で振り返ると、最初から全体構成をどうこう考えて取り組んだ訳ではないのね。
 自分の読みたい幻想ロマンを、次はあれにしようかこれにしようかと楽しく描いているうちに12年が過ぎていた――。 それが本当のところです。


 『とりかえばや異聞』の中で、どこかで見た顔が並ぶページがあります。
 物語の筋に直接には関わらない幻想の場面ですが、花陽炎とも秋篠とも見える若い公達、また、『大江山花伝』茨木童子藤の葉らしき二人、そして、『花伝ツァ』花車(かしゃ)でしょうか。


 この幻想ロマンシリーズにつながるものは、多分、ずっと昔から私の中で伏流水のように流れていて…。
 人知れず流れ続けていた私の中の伏流水が地表に現れたのが、『夢の碑』シリーズだった―― そんな暗喩を込めたページです、と言っておきましょう。(笑)


 年代的に見ると『大江山花伝』『花伝ツァ』はどちらも『夢の碑』に先立つ作品ですが、PFコミックや小学館文庫に『夢の碑 番外編』として収録されていますね。

 ええ、この幻想ロマンシリーズの“源流”みたいな作品ということで。

 シリーズ本編の作品相互連関としては、『桜の森の桜の闇』『青頭巾』『鵺』(ぬえ)の三作品がはっきりしていますね。
 それぞれの主要キャラクター、花陽炎(はなかげろう)、秋篠(あきしの)、篠夫(しのぶ)の三人が、時空を越えて微妙に絡み合って鎮魂譚を重ねています。


 『青頭巾』の秋篠も、『鵺』の篠夫も自分しか見えない化け物ですからね。

 拙サイトの資料ページから『青頭巾』の紹介を引用します。
 「平 清盛が栄華を極め、やがて没した頃の京の都。時の支配者が変わっても桜のみごとさは変わらない。 人間の権勢欲や愛憎も変わらない。」
 『青頭巾』という作品は上田秋成の『雨月物語』の中にもあって、先生の『青頭巾』の中でもその概略に触れていますね。


 ええ、とても大まかな説明ですけどね。
 違うところと言えば、上田秋成の『青頭巾』は成仏できてお話が終わるけれど、私の『青頭巾』は成仏できていないのよ。


 はい、むしろそこから時空を超えるドラマが始まっています。
 『桜の森の桜の闇』『青頭巾』は、どちらも「魔さ」というフレーズで終わりますが、時代下った『鵺』の最後のキメは「夢さ」。 そこに救いを感じるか、現世(うつしよ)の無常を感じるか…。


 自分しか見えない化け物が、自分から成仏できない世界に落ち込むのが『青頭巾』。 そして、ゴーーンとお寺の鐘が鳴って、誰かと誰かが成仏するのが『鵺』
 誰と誰でもいいのよ。 ……って、ひどい言い方よね。でも、自分しか見えない化け物が、その化け物だけを見つめてくれる相手を見つけて捕まえて、メデタシというお話なのだから、その意味では誰と誰でも良いの。


 「自分しか見えない」というのであれば、『青頭巾』のお姫様たちもひたすら秋篠を愛しているようで、実は自己愛に溺れているようにも見えます。

青頭巾があれば成仏できるのに…
小学館文庫『青頭巾』全1巻
 ああ、そうね、そういう風にも見えるわね。 どちらにしても狂気よね、あのふたりは。

 『桜の森の桜の闇』の白衣(しらぎぬ)も、同じような狂気でしょうか。

 そう、私は自分があまり女性的な性格でないから作品の中にうんと女性的なキャラクターを登場させますが、白衣は本当に女らしい娘(こ)。
 でも、いえ、だからと言うべきかしら、「怨」と「愛」という名の狂気。 『青頭巾』のふたりはちょっと違う。 「怨」はないわね。
 ただ、私の狂気は植物を媒介にするから、この場合は桜ね、それほどどろどろした感触にはならないし、したくないな、絶対に。


 それが幻想ロマンの「幻想」たるゆえんでもありますね。

 そうだ、あのね、他の漫画家さんが「鬼」を題材にした作品を描いて祟られたとかいうか、祟られるまではないにしても、「鬼が登場する作品を描いたら、原因不明の熱を出して寝込んでしまった」なんてお話、時々、聞きますよね。
 幸いにも、私はその手の体験はないのよね。 それは、鬼をリアリスティックに描かないで幻想ロマンとして描いていたからだろうと思っています。

 12年目で『夢の碑』シリーズを締め括ったのは、何かきっかけがあったのでしょうか?

 いくつか要因はありますが……。
 和洋様々な時代と場所の幻想ロマンをひととおりやってみて、同じ事の繰り返しになっても仕方ないかなと思ったし、あとは体調不良もありました。
 今年の7月だったわね、インタビューで『渕となりぬ』が話題になった時にも話しましたが、あと5回あれば、あのお話もちゃんとしたクライマックスを作れたのだけど、結局はしょって不本意なまとめ方をしました。 当時はかなり悔しかったです。はああ…。(ため息)


 悲劇のクライマックスですよね。見たいような見たくないような…。

 うん、でも、きっと、あの作品はああいうものだったのだわ。
 お能の世界で能面を描く人を能絵師(のうえし)と言いますが、『渕となりぬ』で私が描いた幾つかの能面の絵は、能絵師の方がお描きになったものより出来が良いと、お能関係の方にも言ってもらったし、能の演目もいろいろ描けたし、いいわ。


 私も、「お能の歴史、演目、そのほか色々、なまじの“お能入門書”より『渕となりぬ』の方が理解しやすくて記憶に残りました」というメールを頂いたことがあります。

文中の作品の単行本収録は以下のとおりです。 詳細は拙サイト書籍資料をご参照ください。
作品名 プチフラワー(PF)コミックス 小学館文庫
『桜の森の桜の闇』 『夢の碑』1巻 『とりかえばや異聞』全1巻
『とりかえばや異聞』 『夢の碑』1〜2巻 『とりかえばや異聞』全1巻
『青頭巾』 『夢の碑』2巻 『青頭巾』全1巻
『大江山花伝』 『大江山花伝』全1巻 『大江山花伝』全1巻
『花伝ツァ』 『大江山花伝』全1巻 『大江山花伝』全1巻
『鵺』 『夢の碑』9〜12巻 『鵺』全3巻


「雪月花」('81年1月から'82年12月までの2年限定で活動した公認ファンクラブ)で使用した封筒の挿絵より
 早いもので21世紀の最初の年も残りわずかになりました。来年のお仕事のご予定などは?

 プチフラワーの『杖と翼』の連載の他には、また、集英社のYOUにも『大正浪漫探偵譚』シリーズを描きます。
 実はこのシリーズ、今年も去年も一年に1本しか描いてないんですよね〜〜〜。(大汗)
 4月発売号に掲載の予定だけど描けるのかしら、連載の合間に!! ううう、、、すごーく不安。


 大変だとは思いますが、楽しみにしている読者も多いのでぜひお願いします。

 はい。年末からプチフラワーの仕事を前倒しでこなして、春にはYOUに描けるようにしたいです。 どちらも読んでくださいね。

2001年11月27日電話にて
引用転載厳禁
(2001.12.16 up)

著作権法32条に因り画像を掲載しています
2001年11月27日 その1

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