新国立劇場「ワルキューレ」上演に当たって
(その2)
♪急な出演依頼にもかかわらず出演する歌手の皆さんを紹介してください。
大野和士
我々にとって幸運だったのは、クプファーラデツキー(Michael Kupfer-Radecky)さん(ヴォータン)が1月に関西フィルの演奏会で来日していたので、
その後、緊急事態宣言延長が延長されることを見込んだ新国立劇場が、彼に日本滞在の延長を申し込み、彼がそれを受け入れてくれたことです。
彼は、ハノーファー州立歌劇場の専属歌手で、ヴォータン役を歌っています。
♪ミラノスカラ座、バスティーユでは、ハンス・ザックスも歌っています。
大野和士
池田香織さん(ブリュンヒルデ)は、二期会「トリスタンとイゾルデ」(2016年)や、びわ湖「指輪」チクルスで歌い、ワグナー上演に欠かせない存在です。ワルキューレは3年ぶりとのことです。
小林厚子さん(ジークリンデ)は、新国立劇場では「トスカ」を本公演で歌った他、「タンホイザー」ではエリーザベートのカヴァーを務めてくださったり、
日本では貴重なリリコ・スピントの声の持ち主です。ヴェルディのアリアを一緒に演奏したことがありますが、感情の乗り移ったような、血の通った声が素晴らしい。
長谷川顕さん(フンディング)は、私が指揮した1996年の二期会の「ワルキューレ」でもフンディングを演じています。
♪さて、最終公演(3月23日)は、城谷正博(じょうや・まさひろ)さんが指揮されます。
新国立劇場では「副指揮、コレペティトール、稽古ピアニスト、合唱指揮、プロンプターなど劇場で必要とされるあらゆる音楽的業務」を手掛けている、と紹介されています。
大野和士
ヨーロッパのオペラハウスのように、GMDの下に第1カペルマイスター、第2カペルマイスター・・・が揃っていれば、急な代役も務まるでしょうが、日本ではそういうシステムが出来上がっていない。
その点、城谷さんは例外的に新国立劇場のいわゆる「劇場付きの指揮者」と呼べる特別な存在で、ワグナー、シュトラウスをはじめとする難しい演目すべてにかかわっています。
「ワルキューレ」の歌詞をはじめとする幾多のオペラの歌詞をすべて暗記している、という驚異的な記憶力の持ち主でもあります。
♪城谷さんは、新国立劇場におけるカペルマイスターのような存在なのですね。
大野和士
そこまで作品を熟知していないと、リハーサル無しで公演を指揮をすることはできないでしょう。
♪新しいキャスティングといい、アッバス版を利用した管弦楽といい、コロナ禍による制約を逆手にとったような挑戦的な上演ですが、演出上の難しさもあるのではないでしょうか。
大野和士
音楽稽古は、身体の距離を取り、衝立を置いて行っています。立ち稽古も、歌手はマスク着用のうえ、慎重に距離を取っています。
本番でも、近くに立って人に向かって歌うことはありません。
視覚的にはゲッツ・フリードリヒの演出は、その点うまく空間を使っていますし、演劇面においては何よりも音楽が助けてくれるでしょう。
♪聴衆も、舞台上の制約や字幕にとらわれ過ぎないで、音楽と向き合うことが大事だ、ということですね。
大野さんは、東京都交響楽団と奏者間の距離を様々に試すなどして、その結果を実証実験報告書
「演奏会再開への行程表と指針」として公開されました。
それによれば、予想に反して管楽器からの飛沫は少ない、弦楽器はしゃべらなければマスクもいらない等々、コロナ禍におけるオーケストラ演奏の準則となるものでした。
このように、演奏環境を整えるために先陣を切って奮闘されてきましたが、その目指すところは。
大野和士
昨年、最初にヨーロッパで飛沫の実験が行われ、科学的検証に基づいたソーシャル・ディスタントとされてきた基準は、
一人一人の奏者が1・5m あるいは2m離れるという、およそ演奏する立場からは、お互いの音を聞くこともできない全く適当とは言えないものでした。
その後、科学的数字だけではなく、音楽家の意見も取り入れながら、ある一定の距離を取りながらも演奏が可能な形態が模索され始めたのですが、
私は、日本のオーケストラがそれを決めるためには、ヨーロッパの数字を鵜呑みにするのではなく、日本のホールで、それに空気、湿度の中で実証しないと全く意味がないと考えました。
そこで、感染症対策の医療専門家と飛沫の科学的実験の専門家の助言を受け、どのようなあり方が日本のオーケストラや劇場に本当にふさわしいのかをきめ細かに探ったのです。
日本やアジアと欧米諸国では、新型コロナウイルスの感染状況がまるで違うということもありますし。
♪そのおかげで、国内のオーケストラは演奏活動を再開することができました。
昨年7月、約半年ぶりに東京都交響楽団の公演が再開した時(7月12日)、奏者が舞台上に現れただけで、聴衆から期せずして拍手が沸き起こりました。
こんなことは、来日著名オーケストラ以外では、初めてのことではなかったでしょうか。
こういう時の楽員の皆さんのお気持ちは。
大野和士
これは、実際にあるオーケストラのメンバーが語っていたことです。
「今までは2,000人の聴衆が入って満員になるのが当たり前のように思っていた。
ところが、本当に久しぶりに演奏会を再開した際、最初はお客さん収容人数が200人か300人ほどであったにも関わらず、演奏後の拍手はそれまで経験した時より『はるかに心に痛いほどジーンと突き刺さった』」
♪私も運よく都響の再開公演を聴くことができました。最初のコープランド「市民のためのファンファーレ」を聞いただけで、魂が震えました。
生の音楽というのが、これほどの喜びをもたらしてくれるとは・・・。
大野和士
これは演奏者にとっても大変貴重な体験で、これを経験した人たちは音楽家として、その後、必ず何かが変わっていると思います。
♪一方では、オンラインでの演奏公開も増えています。
大野さんも、この2月にはブリュッセル・フィルのオンライン公演の指揮をされました。
このブリュッセル・フィルというのはいかがでしたか。
大野和士
交響曲「リンツ」をメインとするモーツァルト・プログラムを振りました。とてもバランスの良いオーケストラでした。
♪音楽監督のステファン・ドヌーヴが率いて来日したこともあります。(2017年)
大野和士
今年9月にも指揮する予定です。
♪それでも劇場やコンサート会場での音楽が求められています。
今、都心の電車に乗るのも怖い、という人もいます。特に高齢の方は心配でしょう。それを乗り越えて、演奏会に人々が集まってきます。
大野和士
ザグレブ・フィルの音楽監督をしていた時、旧ユーゴスラヴィアからの分離独立の戦争が起きました。
いつ空襲があるかもしれないという状況の中、ザグレブ・フィルを聴くために、灯火管制の真っ暗な街から人々が黙々と歩いて集まってくるのです。
こういう聴衆を前にして、当時、オーケストラはお客さんの熱気に押し上げられるように、まさに取り憑かれたように音楽を演奏していたように思います。
♪先日(2月20日)、紀尾井ホールで三浦文彰さんのヴァイオリンリサイタルを聴きましたが、プログラムノートには「命がけで来て頂いた皆様の為に、最高の音楽をお届けしたい」と書いてありました。
大野和士
リモートなど、音楽を届けられる手段は増えましたが、クラシック音楽は、生の音を聴くことがなんといっても醍醐味です。
「ニュルンベルクのマイスタージンガー」のハンス・ザックスもこう歌っています。(第3幕第2場より、歌詞は抜粋)
「春や夏に美しい歌を作ることは誰にでもできるでしょう。しかし秋が来て、やがて冬が来た時に真の歌を作れる人こそが本当の芸術家なのです。」
パンデミック下における、音楽が人に与えられるいちばんのメッセージではないかと思います。
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