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カルメン、アズチェーナ(トロヴァトーレ)、エルダ(ニーベルングの指輪)といったアルト歌手の重要な役は、ほとんど必ずと言って良いほど伊原さんの手に委ねられてきました。 また、日本におけるマーラーの交響曲第2番「復活」、第3番、「大地の歌」などの演奏史を語る上では絶対に欠かせない重要な演奏者として数多くの名演を覚えていらっしゃる方も多いと思います。 今回は大野和士さんとの出会いから、伊原さんのカールスーエやモネ劇場との不思議な縁など、幅広い話題について語っていただきました。 なお、伊原直子さんは、二期会創立50周年記念30日連続演奏会の「トリ」として、2002年6月4日、サントリーホールで佐々木典子(ソプラノ)とのジョイントリサイタル 〔時空を超えてあなたの心に!〕に出演なさいます。 ぜひお聞き逃しなく! (文責:堀江信夫,文中敬称略) |
大野和士との出会い−サムソンとダリラ1988年− |
最初の出会いは、バリトンの池田直樹さんから電話があり、「神奈川県民ホールで“サムソンとダリラ”をやらないか」という話でした。 まさか日本で“サムソンとダリラ”が出来るとは思っていませんでしたし、アルトのタイトルロールオペラというのはそうそうないし、まして日本で歌えるなんて、思っていなかったのです。 そこで、「指揮者はどなた?」と聞くと、「あなたの知らない、まだ無名の人」ということでした。 それが、トスカニーニ・コンクールに優勝なさった直後の大野和士さんだったのです。 |
神奈川オペラ公演「サムソンとダリラ」の公演プログラム |
1988年3月18日、20日神奈川県民ホール 製作監督 池田直樹 指揮 大野和士 演出 佐藤信 合唱指揮 高橋勝司 ダリラ 伊原直子 サムソン 大野徹也 大祭司 多田羅廸夫 アビメルク 池田直樹 ヘブライの老人 山口俊彦 ペリシテの使者 近藤伸政 第一のペリシテ人 牧川修一 第二のペリシテ人 中村邦男 合唱 横浜YMCA混声合唱団、 横浜市立大学混声合唱団、 横浜国立大学グリークラブ 合唱協力 二期会 管弦楽 東京交響楽団 |
私は、「それでは、練習日数を多くとって欲しい」というお話をしました。 大野さんのピアノで個人稽古を週に3回はやりましたね。言葉の歌いにくいところとか、音楽のフレーズの作り方とか、お互い言いたいことを言い合って音楽練習をしました。 この時は訳詞で、大野さんご自身が訳され、また、大野さんのお兄さまもフランス語が大変に堪能でいらっしゃいますから、手伝われたような記憶があります。 音楽を作ってゆく上で、「先輩後輩とかの遠慮は全くなしで、音楽のことに関しては、お互いの意見を率直に言いましょうね」ということで進めました。 ですから、この公演に関しては、彼だけでなく演出家も私たちも遠慮なく、納得の行くまでお互い意見を出し合いました。 私がヨーロッパで接した音楽の場では、そのようなことは当然であったのですが、日本ではなかなか上下関係があったりして難しいことのようですが、これからは、この点が改善されていって欲しいところですね。 とても僭越な言い方ですけれども、率直なところ、「日本で本当にオペラが振れる人が出てきた!」という感慨を持ち、大変にうれしい気持ちでした。 |
練習中の伊原直子 | 大野和士と演出の佐藤信 |
大野さんの練習のやり方、あるいは、音楽は、大変的を得ており、フレージングも当然ながら歌手にとり、また、オーケストラにとり、理解しやすい指揮であるのはもちろんのこと、音楽への深い洞察力を持ち合わせています。オペラの場合はテキストと音楽のつながりも大切ですが、その点でも秀でており、わたくしはうれしいショックを受けました。 当時は、ヨーロッパでの劇場での感覚も強く残っていましたから、帰国してオペラのたびに大変な違和感を覚えていました。その中で大野和士さんとの出逢い、光が見えたという感がしましたね。 ですから、この時は出演者の皆さんも燃えました。 シングル・キャストでしたが、スタンド・インもちゃんとゲネプロやって、オペラの作り方としては大変贅沢だったと思います。 この時は充分な時間をかけて、それだけのことをやったという思いはありましたね。 |
修行時代−ミュンヘン− |
ミュンヘンに西独給費留学生(D.A.A.D.)として留学しまして3年いました。 先日、大野さんがお帰りになった時にもお話したんですが、私がいた頃(1971年〜)、ミュンヘンというかヨーロッパの音楽界自身が、今から思えば、ひとつの音楽の頂点であり華があった時代でした。 ミュンヘンには、よくカール・ベームが来ましたし、ケンペとミュンヘン・フィルの演奏会にも良いのがあったりとか、チェリビダッケがまだ若くて、とか。カルロス・クライバーの棒で“バラの騎士”を何度も聴いたり、“ラ・トラヴィアータ”も体験したり。 毎晩のようにオペラやコンサートに行き、学生券(5マルク)でしたからジーパンにセーターという姿の時もありました。 行きたての頃は、見るもの聴くもの全てがあまりすばらしくて、ブラボーを叫び過ぎて声が変になって、なんてばかなこともあったりしました。(笑) そのうち、例えば“フィガロ”をサヴァリッシュで聴くといいなあと思うんですが、そのうちベームが来るともうびっくりするぐらいにショックで。 サヴァリッシュもスーパークラスですけど、同じ“フィガロ”でありながら、それとはまた違った深いものが提示される。それは言葉で表現するのは難しいけれど、ともかく素晴らしい!のです。 ビルギット・ニルソンが歌った“エレクトラ”(ベーム指揮)を聴いた時は本当に腰が抜ける体験をしました。 |
バイエルン州立歌劇場(ミュンヘン) 撮影:堀江信夫 |
様々な音楽を毎晩のように聴いて、同じ作品でありながら、当然のことですが、指揮者により演奏者により変わってくるということ。 その当時は、ただ感激して幸せだ幸せだ、と言っていたのですが、それが今、わたくしのいちばんの宝物になっていると思います。 そのような下地があって、1981年日本に帰ってきて、「いい演奏が聴きたい」、あるいは「自分がそういう中で一員として演奏ができたら」という思いはとてもありました。 大野さんに出会ったのは、ちょうどそういう時でした。 |
ヨーロッパ時代−ストラスブール、ブリュッセル、カールスルーエ− |
1975年からストラスブール(フランス)の歌劇場の専属になりました。 正式にはラインオペラ(Opera du Rhin)と言い、ストラスブールのテアターのほかにミュールーズ、コルマールというライン河沿いのテアターを含みます。 |
ラインオペラ(ストラスブール) 撮影:堀江信夫 |
ストラスブールで、ジャン・ピエール・ポネル演出の“オルフェオ”(グルック)のオルフェオ役をやったことが、ヨーロッパでの最大の収穫のひとつです。 演出家のポネルは、シュトラスブールと特に縁のある人で、わたくしの居た間にも“ラ・トラヴィアータ”、“トゥーランドット”、“魔笛”などをやっていました。 彼は秀でた指揮者と同じ位に音楽を理解しており、わたくしは彼から音楽も含め、演じる者として得たものことは本当に大きいものでした。 「オルフェオ」はシングルキャストでしたから、練習はポネルと1対1です。 毎日10時間1週間ぶっとおしの練習でした。あの時は彼は世界で最も多忙な演出家だったので、1週間しか時間が取れなかったのです。 その前は助手の人が、彼の指示が細かく記されたノートを持ってやるわけですが。 1日10時間というのは確かにハードでしたが、ヨーロッパの歌劇場では毎日練習というのは当り前のことで、その中でフォームというか発声に欠陥があると、駄目になってしまうこともありますし、逆に、その中で鍛えられていろいろなものを見つけていくということもありました。 |
グルック “オルフェオとエウリディーチェ” ストラスブール歌劇場 ジャン・ピエール・ポネル演出 (C) Alain Kaiser |
わたくしがストラスブール歌劇場を選んだ理由は、当時の総監督のJ.P.ブロスマンと音楽監督のアラン・ロンバールの意向ですべて言語上演であること
(そのころミュンヘンのバイエルン州立歌劇場でも“カルメン”はドイツ語で上演されていました)と、同演目を1か月に5回〜10回程まとめて公演するシステム(スタジオーネ)で、
月に2演目程度なので不器用なわたくしにも出来るのでは…ということで、結果的には良かったと思っています。 わたくしの出演したものでは、カラン・アームストロングの“サロメ”、レオ・ヌッチの“オネーギン”、カヴァイヴァンスカの“トスカ”、ジークフリート・フォーゲルがグルネマンツを歌った“パルジファル”などで、指揮者もテオドル・グシェルバウアー、ミシェル・コルボ、アルミン・ジョルダン等でした。 |
メンデルスゾーン「詩篇歌集」 ミシェル・コルボ指揮 グルベンキアン財団管弦楽団&合唱団 ワーナーミュージック・ジャパン WPCS 5677/8 伊原さんのストラスブール時代の録音のひとつで、「ラウダ・シオン」作品73を歌っている。 このほか、バッハのカンタータ(2曲)や、ヴィヴァルディ「スタバト・マーテル」などの録音に参加した。 |
1981年に帰国する前の年は、フリーでリヨン(フランス)やモネ劇場(ベルギー)でも歌いました。モネ劇場では“ワルキューレ”に出演し、エルダ(ジークフリート)も歌いました。 不思議なことに、大野さんとご縁があるなと思うのは、カールスルーエでも実はわたくし、歌っていまして、ストラスブールとの共同制作の“カルメン”や、”ボリス・ゴドノフ”のフョードル役を歌いました。 実は、ストラスブールの次に、カールスルーエの劇場と契約までしたのですが、両親が病気になってしまい、ひとりっ子のわたくしとしては帰国せざるを得なくなり、それで契約破棄。 「もったいない」という人もいましたけれど、そういう時だったんじゃないでしょうか。ヨーロッパに行ってちょうど10年目でした。 (続く)
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貴重な写真を多数ご提供下さった伊原先生に感謝いたします。 (2002.5.13 up) |