通奏低音
(1)1936年 巴里
人通りの絶えた巴里の石畳に車のエンジンが遠慮がちに響く。
3月初旬、まだ残冬の冷え込みが車内に伝わる。縁無しの帽子を目深にかぶって、 揃いのコートを着たまま座席に身を沈める摩利。頼りないくらいにしなやかなチンチラの毛皮が 体躯に寄り添う。そのラインは10年前と変わらない。
しかし、巴里の摩利を取り巻く情勢は10年前とはかけ離れたものになってしまった。 遠くはなれた日本にいる新吾をとり巻く情勢も、いや、そういうのも正確ではない。 摩利がいる欧州も、新吾がいる亜細亜も、美女夜がいる合衆国も不穏な黒雲の接近に神経を 尖らせている。
外から黒塗りのリムジンの座席扉が開かれて摩利は鷹塔邸への到着に気付いた。 父・鷹塔伯爵が建物を一つ買い上げて、もう30年近く住んでいる高級アパルトマンは、 申し合わせたように3階の思音の部屋と2階の摩利の部屋だけが明るい。懐中時計の針は 深夜を過ぎているだろう。
執事も休ませている時間なので、摩利は帽子とコートを手に持ったまま3階をたずねた。
「何が起ころうと事態に合わせた最善と言うものがありますよ、摩利くん。」
「どんな時でも強気なとうさまの言葉を聞けて、おれは嬉しいですよ。では明日、 2時にボーフォール公邸でお会いしましょう。」
10分もかからず父と息子の会話は終った。襟元と袖口に天鵞絨をあしらった部屋着を羽織った思音は、摩利を見送った後も机上の書類を丹念に読み続ける。が、その表情はいつになく厳しい。
2階の灯かりがともる部屋には大型の旅行鞄や衣裳箱がいくつも積まれていた。 椅子の背にコートを掛けた摩利の気配に荷造りを続けるささめが振り向いた。
「おかえりなさいませ、摩利さま」
「うん、遅くまですまないね。予想外に事態が悪くてね、ささめちゃん。」
ささめの労をねぎらって微笑みかけながらも、深刻な話を伝えなければならない気の重さは隠せない。
「東京で将校に内大臣と大蔵大臣が暗殺されたんだ。どうやら東京は平静を保っている。 夢殿先輩からの極秘連絡で確認したから間違えない。」
世に言う2・26事件、雪の帝都・東京を血で染めた軍事クーデターだ。 摩利が言外に誰の安否を気遣っているかは言うまでもない。
「予定よりだいぶ早いけれど、来週の船でルペルと一足先に帰国してくれないか。 おれもとうさまも伯林の方まで整理しなければならないから一緒に行けないけれど。
軽井沢の別荘の手入れとか東京事務所の秘書と相談して、とうさまとおれが戻るまでに ささめちゃんにやっておいてもらわなければならないことが沢山あるんだ。 ささめちゃんから新吾に直接手渡して欲しい手紙もあるし。」
16歳になるかならぬ頃から欧州に住んでいるささめは、近頃のただならぬ世情を肌で感じとっている。 摩利や思音からも常に話を聞いている。
年々、独逸は独裁体制を強め、とうとう昨年は徴兵制度を復活させてしまった。 これは、第一次世界大戦後、欧米各国の国際関係の基本となっていたヴェルサイユ条約を 一方的に独逸が破棄したことに他ならない。
日本も今年の1月には倫敦海軍軍縮会議を脱退して戦艦の無制限建造にかかろうとしている。 仏蘭西や英吉利が、軍備拡張に余念のない独逸や日本の動向を座視しているわけがない。 巴里で日本人が、独逸の血を引く息子と共同事業を営むにはあまりに国際情勢は厳しい。
「はい、摩利さま」
全てを心得て、ささめが答える。
―― 摩利さまは一足先とおっしゃっているけれど、欧州の鷹塔家とメーリンク家の資産整理が一月や 二月で片付くはずがない。やり手の伯爵と摩利さまのことだから、情勢が好転した時に備えて 事業再開の手はずも整えておくお積もりだろう。
ささめは脳裏を過ぎる不安はきりっと小間使いのエプロンに包みこんで 子どもの頃と変わらない笑顔を見せる。
いつの頃からか、この笑顔が摩利の永遠に満たされない心を慰めていた。
今一つ、摩利は心がなごむ無邪気な表情を見るために書斎を抜け寝室の奥の扉を開く。 この部屋を整える時、
「小間使いふぜいの部屋を摩利さまの部屋と続き部屋にして、贅沢なマホガニーの家具まで同じに 揃えるなんてとんでもないことです。」
と、ささめが文句を言ったものだ。
そこには人の世の憂いとは無縁に黒い髪の天使が寝息を立てている。
「ひとり息子の初めての長旅に付き添えないなんて、やっぱりおれはいい父親じゃないな」
言葉とは裏腹に摩利は屈託なく笑う。
「でも、許してくれるよな、ささめちゃんの坊やだから」
控えるように扉口に立つささめも、「また、摩利さまったら」という言葉を飲み込んで、 くっくっとのどで笑った。振り向いた摩利も一時、憂いを忘れた笑顔をむける。 自分の子どもの黒髪にさえ新吾の黒髪を重ねてしまう時もあるのだが。
翌週ささめが“ささめちゃんの坊や”を抱いてルペルとともにマルセイユから日本に発った。 毎日が分刻みのスケジュールを調整して摩利と思音が見送りのテープを握る。 日本で、欧州で誰もが果たさなければならない使命を自分に課している。
「さあ、これからだ」
水平線を見やって摩利がつぶやく。豪華客船の波跡も消え果てかもめたちが 1936年の春を迎えようとしている。