竹薮みさえ氏ことおねいさまの登場です。
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夢の碑はまさに未知への痕跡である。 |
縞りんご星部分拡大図 | ||
皆様もご存知の『摩利と新吾』。
主人公ふたりの名前をあわせて“縞りんご”と呼ぶことも。 Cheeish Gallery 自選複製原画集2 『摩利と新吾』より |
ただ、この21世紀はいままでのどんな時代とも違う。 |
芸術家は、完全なる創造である。 |
鬼もまた同様である。
鬼はわたしたちの哀しみが形になったものである。 したがって、望みをはたした桃太郎よりは、鬼の方が遥かに大きな希望を描いていたのだ。 桃太郎をもってしても叶わなかった希望。 それこそが未来であり、神の描くヒトのユートピアかもしれぬではないか。 こどもは鬼に共感し、そしてこの世とは別の世界があることを魂で学ぶ。 しかし、われらが近代は、見えない世界を否定した。 当然の結果として、わたしたちは本源を夢見る力を失ってしまった。 わたしたちは自分の希望さえも語れない。 希望を語れない人間の魂など考えたくもないが。 無念がわたしたちに教える。 贋の希望の空しさを。 無念がわたしたちに示す。 人間の本源的あり方を。 |
わたしたちは「夢の碑」を辿(たど)らねばならない。
わたしたちの未来の羅針盤として。
木原敏江氏の仕事は近代が見失ったヒトとしての希望を歴史の水脈の中から掘り起こす作業であると言えないだろうか。 「摩利と新吾」しかり「アンジェリク」しかり。 その際たるものが「夢の碑」なのである。 まさに芸術の為せる技である。 さて、有史以来連綿と続く終わりなき日常、その隙間に羽角や映宮の涙のやどる歴史的瞬間。 過去から未来へと続くそのような思いの宿る瞬間に気づくことのできる私であるか。 自分に問わずにいられない。 DOZI様助けてお願い。 |
皆様はもう『夢の碑』をお読みになったでしょうか?
『夢の碑』といわれてピンとこなくても、『雪紅皇子』(ゆきくれないのみこ)とか、『鵺』(ぬえ)とシリーズ中の作品名を聞いたことはあると言う方もあろうかと思います。 |
というわけで、みさえ氏のレポートですが、「鬼」が非日常に追いやられている今日の私たちを憂い、「鬼」が日常に共存していた時代を綴るDOZI作品に深い共感を綴っています。
このへんはお読みいただけば自明ですが、蛇足を承知で“用語の説明”をいたしましょう。 |
そして、羽角(はすみ)と映宮(はゆるのみや)。 (2001.11.11 up)
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(2001.12.31 リンク追加) |