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 2001年9月14日 その1


小学館文庫『雪紅皇子』
小学館文庫(全1巻)
 それでは早速ですが、前回のインタビューで少し触れた話題からお願いします。
 『夢の碑』(ゆめのいしぶみ)シリーズの中で、どうして『雪紅皇子』(ゆきくれないのみこ)が一番お好きのでしょうか?


 思い入れがあるからでしょうね。

 何に対しての思い入れですか?

 まず、吉野という土地
 理由はないのですが、私は吉野という土地が好きです。 若い頃から妙に惹かれて、頭の中に磁場が出来ているとでもいうのか。

 そして、室町時代という時代
 室町時代も理由なく好きです。 わけのわからない時代なんですよね、まだ残っている平安の優雅と、既に戦国時代が見えている無頼とが同居していて。 婆娑羅(ばさら)大名なんて、弾(はじ)けたお兄ぃさんたちが闊歩していましたからね。


 婆娑羅大名といえば、第一に佐々木高氏(ささきたかうじ 1306年〜73年)の名前があげられるでしょうか。 もちろん、他にもいましたけれど。
 倹約を第一条に掲げる「建武式目」などどこ吹く風で、服装持ち物すべて奇抜、豪華、多奢に飾り立てて、やることなすこととにかく派手に現世謳歌を実践した面々だったから、室町幕府も手を焼きましたね。 婆娑羅の風潮を「物狂(ものぐるい)」と言ったくらいです。


ペルシャで突然、竹林
『王子さまがいいの!』より
 そう、それも婆娑羅の贅沢は、破格・破調が根底にある「分不相応な贅沢」、つまり、時の下克上の流れをどこかで反映していたものです。
 で、その戦乱の迫る時代 ――応仁の乱が起こるのは1467年ですからね ―― にも、民衆はたくましく、閑吟集(かんぎんしゅう)の言葉を借りれば「一期(ご)は夢よ ただ狂へ」と開き直っている。(笑)


 「一期(ご)は夢よ ただ狂へ」、先生が『王子さまがいいの!』で、引用している一節ですね。
 ペルシャを舞台に、散々ドタバタ騒動を繰り広げた挙げ句、それまで何かといがみ合ってきたフィリップと百合太郎が、相通じる人生観を語り合う場面ですよね。 そこで引き合いに出されるのが閑吟集――。印象的なフレーズです。


 さらに、南朝のいわば失われた歴史への想いとでも言いましょうか。
 現在の天皇家は北朝の流れなので、学者の方が書いた本によると第二次世界大戦前は歴史資料といえども南朝のものは公(おおやけ)にできなかったそうです。 だから、今日まで残っている資料が非常に少ない。つまり、史実はわからない。
 それでいて悲運な二皇子の話など、あまりにロマンチックなエピソードが残っています。

 先生が小学館文庫『鵺』(中編)の後書にお書きになった「首が…」というエピソードですか?

 いえ、そこに書いた谷崎潤一郎の『吉野葛』のほうです。
 とにかく、吉野、室町時代、南朝、どれも私にとって「いつか描きたかったもの」です。 この「いつか描きたい、描けたら描きたい」という気持ちをずっと暖めていたので、『夢の碑』のシリーズを起こした時に、この中でやってしまおうとタイミングを計ったというか。
 土地への思い入れと時代への思い入れ、そして、滅びた者への思い入れと、私の様々な思い入れの結晶みたいなもので、だから一番好きなのでしょう。

 ただ、いざ描くとなると重い時代です。 なにしろ滅びの歴史ですから。
 そう言えば、私は滅びた者を描くことが多いのよね。 物語の最後は「誰もいなくなる」というパターンがとても多い。


 そういえば、『風恋記』の源実朝は滅びだし、滅びとは少し違うけれど後鳥羽上皇も不遇、作品全体いわばフェイドアウトですね。

深日宮自天王
主上(おかみ)と呼ばれる深日宮自天王(ふかひのみや みちひろおう)
 ええ、私の作品はフェイドアウトが多いです。
 とくに『雪紅皇子』は、歴史にも残らず伝説になってしまった人たちへの想いをこめたせいか、「レクイエムですね」と言われたことが、何度となくありました。 そう、もっと踏み込んで「(滅びた人たちの)ご供養をしている」と言われたことさえあります。
 もっとも伝説上の皇子とは言え、「自天王」「忠義王」の名前は残っています。 ただ、残っているのは漢字だけで、今となっては本当の読み方はわかりません。


 贈名(諡・おくりな)だったのかもしれませんね。

 その可能性もありますね。
 「自天王」に今の漢字の読み方を当てはめると、「じてんのう」とか「じてんおう」になるでしょうか。 そう、『吉野葛』では「じてんのう」と振り仮名がふってあります。 けれど、それではあまりに趣がありませんから、私は「みちひろおう」の読みを当てました。
 深日宮(ふかひのみや)も私の創作です。 大阪湾に面しているというか紀伊水道に面しているというか、大阪の南端、和歌山県との境に深日という港がありまして、その地名に由来させています。
 そして二の宮は偉そうな人にしたくなかったので、“映(はゆる)さん”と呼んでみたり。
 つくづく、漫画家でよかったわ〜。学者だったら推測や創作はできませんからねぇ。

ご参考までに、拙サイトの資料ページから本作品のご紹介を引用します。

雪紅皇子 ゆきくれないのみこ (1992年〜1993年作品)
 南北朝時代というより既に室町時代、あと10年余りで応仁の乱が起ころうかという頃。
 それでも、南朝方の人たちは吉野山奥の集落で帝を戴き、南朝再興に人生を賭け、子孫に悲願を托している。 その要(かなめ)の重責を、物静かにひとり背負う一の宮。 数少ない手兵をまとめ率いる山岳戦の天才、弟宮・映宮(はゆるのみや)。 異形の愛が、ほのぼのとした彩りを添えています。

水琴窟 すいきんくつ (1993年作品)
 雪紅皇子のインサイドストーリー。映宮のお守役・降矢(ふるや)と、真葛(まくず)はともに南朝の隠れ里で育った幼なじみ。
 小道具に使われている水琴窟や砧(きぬた)から、日本古来の音に対する美意識に思いを馳せてみたり。

上ゲ哥 あげうた (1994年作品)
 同じく雪紅皇子のインサイドストーリー。 幼い映宮が、兄・一の宮のもとに引き取られるまでのいきさつと、雪紅皇子の導入部の伊勢の偽南朝狩りの物語。
 映宮の女装は遊女置屋のおかみが目眩をおこすほど美しくて。

映さん
映宮
 二の宮・映さんは、“月光の美貌の宮”とか“山岳戦の天才”と言われて、時には冷酷なまでの凄腕の武将、極めつけのクールビューティ ……、のようですが、実は甘ったれだったりして。

 そう、実は、彼はお兄さまに寄り掛かっていないと生きていられない人なのよね。

 「女嫌い」と言われただけで、わなわな震えて新入りの端女(はしため)相手に爆発してしまうなんて、駄々子ぶりも見せますし。

 映さんを“男好き”とは見て欲しくなかったので、あんなふうにしてみました。 まあ、彼は歩鳥(ほとり)のことも好きだったし。

 ということは、本編を描いていらっしゃる間に、すでにインサイドストーリー『上ゲ哥』の構想を練っていらしたのですか?

 いいえ、全然考えていませんでした。(笑)

 ちなみに、この作品中で先生のお気に入りのキャラクターは誰でしょうか?

 シリーズ全体を通して、帯刀(たてわき)と降矢(ふるや)の二人が私は気に入っています。 どちらも好きだし、柔らかいのとお堅いのとの組み合わせも楽しいし。

深日宮自天王
 『雪紅皇子』のシリーズはベタで影(シャドウ)をつけていますが、先生の作品としては珍しいのではありませんか?
 先生は線か、1990年代以降はスクリーントーンで影をつけることが多いようにお見受けします。 あと他にベタの影を使っている作品というと、『大正浪漫探偵譚』(たいしょうロマンミステリィ)シリーズくらいでしょうか…。
 それだけに画面全体に、他の作品とは一味違った雰囲気が出ています。


 そう、影をベタにするだけで、かなり感じが変わるんですよ。

 劇画調の雰囲気とでも言いますか。

映さん
 このシリーズは、深々(しんしん)とお話を進めたいと思っていました。 なぜかといえば、レクイエムではあるけれど、絵空事にはしたくなかったから。 言い換えると、地に足がついた雰囲気を出したいと考えていました。
 ベタの影も、そんな雰囲気を出すために用いた技法のひとつです。  ――私の思い入れの一端が現われたと言えますね。


 これは、以前、拙掲示板に頂いた質問ですが、「『水琴窟』の扉のゴージャスな美人のアップ、あれはどなたでしょうか?」

 グレタ・ガルボとマレーネ・デートリッヒを足して二で割ろうとしたのだけれど、どうも私は口の大きな女性は描けなくて、誰だかわからない絵になってしまいました。

 この質問を頂いたとき私は、「登場人物にはない顔ですね。 カラー扉の原稿はかなり締切りが早いそうなので、先に扉絵の原稿を出してから、登場人物の顔立ちをお考えになったのかも…。 と個人的な推測です」と、レスを書きましたが…。

 ピンポンピンポンピンポ〜〜〜ン!!! 大当たり!  『水琴窟』というタイトルさえ決まっていなかった!(笑)
 本当に早いんですよ、カラー扉の締切りは。
 それでも、ずいぶん前から出版社さんがせっかく「毎回カラーにしましょう」と言ってくれるので、カラー扉に取り組んでいます。
 そして、私の場合、白黒の本文はオフセット印刷ですが、こちらも活版印刷より締切りが早いんです。 だから、もし本文が活版印刷になっていたら、「よほど入稿が遅れたんだ。 よくぞ落とさなかった(予定外の休載をしなかった)」と思って下さい。(笑)


 え? 先生は掲載を予定しながら原稿が遅れて掲載できなかったことは、1回もないのではありませんか?  デビュー以来30年以上…。

 それは、1回もありません。 なんと言うか、その、いわゆる「作者急病につき休載」(もちろん中には、本当に急病ということもあるでしょうけれど)は、やったことありません。 ……、私のささやかなプライドなの。
  • 『雪紅皇子』はプチフラワー(PF)コミックス『夢の碑』14巻に収録されています。
  • 『水琴窟』『上ゲ哥』はプチフラワー(PF)コミックス『夢の碑』15巻に収録されています。
  • 小学館文庫『雪紅皇子』全1巻には、上記三作が収録されています。
  • 『風恋記』はプチフラワー(PF)コミックス『夢の碑』4巻〜8巻に収録されています。
  • 他に小学館文庫『風恋記』全3巻があります。



 秋田文庫『ダイヤモンドゴジラーン』に収録されている「お茶の時間」に、「うさぎを連れてアシスタントに来た強者(つわもの)がいた」と描いていらっしゃいましたが…。

 ええ、ひとり暮らしをしていたアシスタントさんに、追い込みの最後2〜3日だけ手伝いに来てもらった時に、そんなこともありました。(笑)
 うさぎを入れたバスケットとアシスタント道具を背負って来て、仕事中は自分の後ろにバスケットを置いて、餌をやりながら徹夜して。 確か、赤い目の白うさぎでした。ほかのアシスタントさんたちも喜んで触っていましたよ。
 あの時は、まあ、3日ほどの徹夜だったから、“修羅場”としてはまだまだ序の口です。


 3日の徹夜で序の口…。長いとどれくらいになるのでしょう?

 1週間とか2週間とか。

 “タコ部屋”状態になるわけですか?

 そうです。
 “タコ部屋”といえば、1970年代の終わりから80年代にかけてが一番ハードでしたね。 なにしろ、『アンジェリク』『摩利と新吾』の連載をこなしながら、さらに読み切り作品まで描いていましたから。
 4人から5人のアシスタントさんたちが、何日も徹夜で机に向かって、いよいよ「もうだめ!」となったら、仕事をしているその場で後ろにばたっと倒れてそのへんの毛布をかぶってひと眠りするのね。 そして目がさめたらむくっと起き上がって、そのままその場でまた仕事にかかかる――、こんな状態でした。
 そんな修羅場が、みんな楽しくてやっていたんですよ。 若かったのね、アシスタントさんたちも私も。


 まるで、『摩利と新吾』で、織笛が袋はりの内職を摩利の家に持ち込んだ時のようですね。

タコ部屋で袋貼り

 現在(2001年9月)、アシスタントさんは何人いらっしゃるのでしょう?

 3人です。 どうしても忙しい時はもうひとり加わってもらいます。 あと、高校生の甥が「おばちゃんの手伝い」に来ます。
 彼は中学生の頃、遊びで漫画を描いていたのでスクリーントーンは貼れますから、猫の手よりは役に立ちます。 アシスタントのお姉さんたちに「ここにはこれ」と教えてもらいながらトーンを貼っていますが、高校生に徹夜で仕事をさせるわけには行かないので、11時になったら自宅に帰します。


 先の“うさぎ連れのアシスタントさん”のような“先生のインサイドストーリー”が垣間見えるので、「お茶の時間」を楽しみにしています。
 次の『愛(うつく)しき言(こと)つくしてよ』(2001年11月刊行予定)に収録する分は、もうお描きになったのでしょうか?


 あははは、、、、いえ、まだです。解説(後書)はもう出来ているのにね。

 はい、厚かましくも私などが書かせて頂いて、ありがとうございました。 秋田書店さんにお送りする前に、先生に何度もお目通しをお願いしてお騒がせいたしました。

 いえ、私も忘れていたような内幕話の資料を引用したり、楽しい解説を書いてくれてありがとう。 あなたにお願いしてよかったわ。
 それで私の「お茶の時間」ですけれど、今回は『グルメの条件』にしようかと思っています。 多分、それで描くとは思いますが、どうなるかしら…。(笑)


 はい、楽しみにお待ちしています。

2001年9月14日電話にて
引用転載厳禁
(2001.9.23 up)

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2001年9月14日 その2

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